□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第271回配信分2009年07月06発行 やるんだと心に誓うことから始まる 〜久しぶりに間近に見た高校球児の熱い想い〜 □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ <はじめに> ●土曜日に母校の野球部のOB会の総会があり、引き続きグランドでもうすぐ夏 の予選が始まる高校生たちの壮行会を行った。しばらくグランドに行っていな かったが、久しぶりに練習を間近で見て、いよいよ夏の予選が近づいたんだ と、改めて気が引き締まった。我々ロートルが、500歳野球で遊んでいるとの わけが違って、近くで見る本物の硬式の野球は、練習とはいえ結構迫力があ る。春の大会は、強豪校と互角に渡り合ったから、今年は結構期待が持てそう だ。くじ運は、あまり良くないが。 ●その前に開催されたOB会の総会で、年の順番で会長に推挙された。永年、こ のOB会をとりまとめてくださった大先輩のMさんからの引継ぎだ。この学校の 野球部は、前身は軟式野球部だったが、成岡が高校2年生の秋に、あろうこと か京都市の秋の大会で優勝したことがきっかけで、硬式野球部に衣替えした。 昭和43年、1968年の秋だった。当時、高校2年生の筆者は、続けるか、止める か悩んだが、最後まで残ったもう一人のI君と、多くの後輩の頑張る姿を見 て、決心した。 ●その決心は、今でも間違っていなかったと、自信を持って言えると思う。と はいえ、当時の環境は最悪だった。グランドは軟式用のグランドだし、バック ネットも、道具も、何もない。お金もない。それ以上に深刻だったのは、父兄 や学校からの猛反対だった。危ない、危険、ケガをしたらどうする。父兄から は、野球をさすために学校に入れたのではない。まして、京都で当時から名だ たる進学校だったから、その反対は半端ではなかった。なかには、硬式に変え るなら退部するメンバーも出てきた。 <環境は最悪だった> ●どこでどう、最後決心したかはよく覚えていないが、とにかく最後までやる んだと決めた。しかし、いろいろなプレッシャーから、それまで皆勤賞で一度 も休んだことのなかった筆者も、とうとう虫垂炎(盲腸炎)でダウンした。1 週間入院を余儀なくされた。退院して、すぐにグランドに戻ったが、しばらく 硬球が怖かったのを覚えている。当時、練習は自分の学校のグランドがまだ整 備できずに、他校を借りたり、西京極のグランドを借りて、やっていた。とに かく、ないないづくしからのスタートだった。 ●ひとつ下の学年に優秀なメンバーが多く在籍してくれていた。今でも、彼ら や後輩とは親交が深いが、もうひとつ大きいのは、40年にわたってひたすら一 途に指導してくれた監督のN先生の存在だ。筆者が中学2年生のときに、京都 教育大学から22歳で赴任されてから40年。ひたすら母校の体育の教師として、 野球部の監督、部長として、長い間指導していただいた。この指導者の存在な くして、母校野球部の存在は有り得なかった。私学だったから、転勤がなかっ たことも、幸いした。 ●弱小の、何もなかった高校の野球部を引き受け、本当に粘り強く指導しても らった。成岡とは10歳くらいしか歳が違わないので、少し年の離れた兄貴のよ うな存在だった。上級生がいなかったので、硬式の練習を手伝いに来てくれる 先輩もいない。だから、監督が自らやるしかなかった。まさに孤軍奮闘だっ た。硬式の初めての卒業生が我々だから、我々が卒業して練習を手伝いに行く まで、誰一人練習を手伝ってくれる存在はなかった。野球の練習は、結構人手 が要るものなのだ。 <迷いがないと集中する> ●それから40年。創部して40年以上経ったいま、久しぶりに間近で練習を見 て、その後壮行会で激励の挨拶をして、記念にボールを3ダースずつ、高校と 中学に寄贈した。今年のキャプテンから、力強い決意表明の言葉を聞いて、な にやらやってくれそうな予感がした。自分が高校3年生のときに、あんなに自 信満々に言えただろうかと、振り返るとなにやら恥ずかしい気がした。自分た ちが、当時やっていた環境とは比較にならないくらい、設備も環境も整ってい る。この40年で大きく成長した。 ●いま、まさに高校3年生の生徒は、最後の大きな区切りのときを迎えてい る。もう、いま、残って頑張っている生徒には、迷いはないだろうが、ここへ 来るまでは大変だったと思う。中学、高校の6年間一貫校だから、長い生徒は 5年以上ずっと野球漬けの毎日を送ってきた。しかし、彼らを見ていると、特 にグランドで見ているから、余計に非常にすがすがしいものを感じる。ひたす ら、グランドにいるときは、野球に打ち込んでいる。他のことは考えていな い。集中している。 ●進学校で大変だという人もいらしゃるが、じゃあ野球をやらない時間を全部 勉強しているかと言えば、失礼ながらそんなことは有り得ないだろう。野球を 続けていることは、確かにハンディかもしれないが、障害があるからこそ、そ れを乗り越えようとする気持ちも湧いてくる。山が高ければ、何とかして登ろ うとする。まず、意思を持っているから、分かりやすい。その代わり、ほとん んど他のことは出来なかったが。しかし、それはそれでいいのだ。また、後で できることは、後ですればいい。 <後輩に夢を託して> ●予選が始まると、いつも結果が気になる。今年の1回戦は15日の水曜日。た またま、空いている時間なので、宇治の太陽が丘球場に応援に行く。しかし、 雨天で日程がずれると行けないかもしれない。また、勝てば2回戦は金曜日。 これはどうしようもない。こういう日程のめぐりあわせと、開催球場が遠方だ と、行けないことも結構ある。そのうちに、遠方の球場で負けてしまったとい う年も、今までに数え切れないくらいあった。一度も応援に行けないという、 悔しい思いをしたことも、何度となくある。 ●今年から、自社で野球部の公式ホームページの制作、更新の作業も担当させ てもらっている。できれば、時々刻々、進行する状況を更新して全国に散って いるOB諸兄にお届けできたらと、思っている。例年、1回戦で敗退することは 稀だが、そこそこのところには行くけれど、あと一歩、いや数歩のところで涙 を飲むことが多い。果たして、今年はどこまで行けるだろうか。練習を見た限 りでは、相当気合が入っていたように思えたが。高校野球は、本当に何が起こ るか分からないし、やってみないと分からない。 ●しかし、彼らの練習風景を見ていると、本当に真剣だし、迷いがない。集中 しているし、テンションが高い。こういう状態で、たとえ結果が野球では出な くても、それは何か形を変えて、あとで必ず生きてくる。この6年間、3年間 の生活が、大きくあとの人生に影響を与える。まさに、鉄は熱いうちに打て、 である。受験に失敗する者もあるだろう。しかし、最後まで頑張ってやった結 果だから、それはそれでいいではないか。そこから、何か学べばいい。どうし て、企業の経営になると、こうできないのか。不思議な気がする。