□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第284回配信分2009年10月05発行 30年経ったら確実に変わるビジネスモデル 〜1981年に訪れたブラジルで五輪が開催〜 □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ <はじめに> ●2016年のオリンピック招致に東京が敗れ、リオデジャネイロに決定したとい うニュースが金曜日の夜にメディアを駆け巡った。さぞかし、関係者は落胆 し、がっかりしたことだろう。筆者の記憶では、大阪五輪、名古屋五輪も招致 に敗れ、夏のオリンピックの開催は、昭和39年1964年の東京オリンピック以 来、ずっとないことになる。シカゴもオバマ大統領夫妻の活動で随分接戦に なったが、やはり南米での初めての開催という大義名分が勝ったことになっ た。アメリカ大統領の出生地というだけでは、通用しない時代になった。 ●南米の諸国もオリンピックを開催できるくらいの国力のある国になったとい うのは、ある意味世界の潮流の変化を如実に表している。2008年が北京五輪 で、2012年がロンドン五輪。その次のオリンピックだから、やはりアジアでの 開催はあり得なかった。先日開催されたサミットでも、いつの間にかG20とい う表現に違和感がなくなって、超大国のリーダーシップでは運営が難しくなっ た。まして、世界同時不況の経済下では、アメリカも日本も現状維持に汲々と しているのでは、やはり開催には無理があると世間は判断した。 ●開催が見送られた大きな理由のひとつが、国民の支持が低かったということ だ。当然だろう。少し改善したいとはいえ、失業率は高く雇用環境は厳しい。 自動車などの一部の業種業界で改善の兆しは見えるが、それはごくほんの一部 に過ぎない。製造業も多少の改善があった事業領域もあるが、総じて中小企業 では稼働率は低く、雇用調整助成金のお世話になる企業も多い。この秋から冬 にかけて、二番底になると成岡は読んでいる。この二番底に向かっている不況 を脱出するプロジェクトは、五輪招致以外に考え付かないのか。 <1981年ごろは非常に大変な国だった> ●大卒で就職した化学繊維メーカーの技術者として、1980年、1981年と2年続 けて国際会議に出席し、その後毎年40日ずつ海外の提携工場、研究所などを訪 れる海外出張をやったことがある。1981年(昭和56年)は、東京を出て、先に まずブラジルの提携工場を訪れた。直行便がなく、ニューヨークで乗り換え て、サンパウロに到着し、そこからローカル線に乗り換えて、地方空港に到 着。合計36時間、1日半の長旅だった。ほとほと、疲れた。位置的には、日本 のちょうど反対の地球の裏側だ。 ●地方空港に着いてびっくり。見渡す限りの地平線。赤土の道路。道端には車 が捨ててある。もともと車検などの制度がないから、故障して動かなくなった ら、捨てるのだ。その車から、タイヤ、ハンドルなどの部品が剥ぎ取られる。 ホテルのシャワーの水には砂が混じり、工場の食堂ではハエがぶんぶん飛んで いる。もちろん、生水などはとても飲めない。治安も悪く、数日滞在したが、 夜は外出はできない。それでも、工場には当時でも最新鋭の機械が導入されて いた。 ●欧州やアメリカで発展した化学繊維の製造技術を、日本は高度成長時代に導 入した。東レ、テイジン、旭化成などが先発で、後発が三菱、クラレ、東洋紡 などだ。成岡が入社した1974年、昭和49年ごろには日本の技術も海外のライセ ンスを供与してくれていたレベルに追いついた。多少は追い越していたと思 う。そして、メキシコ、南米、インドあたりの各国が技術導入を始めだした。 なにせ、人件費が安いから、高価な製造機械を導入して生産性があがると、圧 倒的なコストダウンになる。 <30年経過すると追い越された> ●1980年にはメキシコ、1981年にはブラジルに技術指導に行ったが、水準はま だまだとはいえ、早晩これは追い越されると感じた。定番品の安価な製品は、 生産性がそもそも全然違った。また、労務費が格段に安い。電気や水道などの インフラ整備が未完成だったが、10年も経てばあっという間に追いつかれた。 当時、日本では非常に微細、繊細な細かい技術が必要な付加価値の高い製品を 製造することで、なんとか凌いでいたが、それも限界だった。最近では、後進 国といわれる国でもどんどん生産できる。 ●最近の新聞で、このポリエステル繊維事業は、大手メーカーがこぞって海外 に生産拠点を移転することになった。成岡のいた三菱レイヨンでも、愛知県の 豊橋事業所の生産を中止し、東南アジアに生産拠点を移転する。いよいよ、こ ういう事業が日本ではできない状況になったということか。今後、こういう流 れが加速して、定番品を中心とするコモデティー製品の生産は、順次海外に移 転するだろう。まして、25%エネルギーの削減を図るとなると、いよいよその 流れが加速するかもしれない。 ●愚痴を言っても始まらないが、世の中の流れだから、我々個人が逆立ちして もどうしようもない。まずは、そのトレンドを受け止めるしかない。その兆候 は30年前にもう始まっていた。2014年にワールドカップを開催し、2年後の 2016年にオリンピックを開催する。東京五輪の開催が昭和39年1964年だから、 50年近くずれていたタイムラグが、もう早晩一気に挽回される。今後もこの流 れは止まらないだろう。30年くらいで、ビジネスモデルは大きく変化する。会 社の寿命の平均値も30年なのだ。 <毎日の少しの変革の積み重ね> ●大きなトレンドの変化だが、それは30年前に成岡がブラジルの片田舎のポリ エステル生産工場を技術指導で訪問したときに、それは感じた。しかし、時間 はかかったが、確実に追い越された。日本では、炭素繊維、ナノ繊維、高度強 化プラスチック、機能性強化樹脂などの本当に高い付加価値の製品しか製造で きない。いや、そういうものしか製造しないと、勘定が合わない。トップの メーカーがそうであるなら、末端に至る一次下請け、二次下請けなどの製造業 も、そうならざるを得ない。 ●遠くを見据えて、近くを確実に変えていく。代替わり、経営者が次世代にバ トンタッチするときなどは、変革のチャンス。あまり大きく舵を切りすぎる と、過去の風土とバッティングしてしまうが、そこは緩急自在にやらないとい けない。一時期は、変革をスローダウンする。また、チャンスと見れば、思い 切ってリスクを取る。そういうスピードチェンジができる企業体質にしておか ないといけない。そのタイミングで慌てても、遅い。日頃の準備が肝要だ。急 に案件が持ち込まれても、対応ができない。 ●成岡が勤務していたときに、30年後に担当していた事業が日本から東南アジ アに移転するとは思わなかったが、退職した昭和59年1984年くらいには、その 兆候は現れていた。繊維では難しくなり、ペットボトルの研究開発がピークを 迎えていた。外部から見た事業は変わらないように見えるが、内部の体質は確 実に変化している。そうでないと、事業とは継続できないのだ。過去の成功体 験に固執している企業ほど、30年経ったら埋没、没落する。資産を切り売りし ても、所詮根幹が変わらないと、永続しないのだから。