□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第286回配信分2009年10月19日発行 2日間連続の周年記念事業に思う 〜組織は世の中の変化と共に生きる〜 □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ <はじめに> ●10月16日金曜日の午後からは、財団法人京都リサーチパーク20周年の記念事 業のひとつである「経営フォーラム」のファシリテーターをさせていただい た。ファシリテーターとは、シンポジウムの司会、コーディネータのようなも ので、パネリストの本音に迫る役割を背負っている。当日は、2名の経営者の 方、行政の方の3名のパネリストの方々との討論を深めるミッションだった。 一人で一定の時間講演するのと違って、逆に引き出し役なので、結構難しい役 割だった。無事に終わって、ほっとしている。 ●翌日17日土曜日は、筆者の所属する社団法人診断協会京都支部創設50周年、 協同組合京都府診断士会創設10周年の記念式典、講演会、パーティがからすま 京都ホテルで挙行された。各界から来賓を多数お越しいただき、京都支部会員 の半数が参加するという、京都支部が開催するのには大きなイベントだった。 実行委員の一人として準備に奔走したが、これも無事に終わって、ほっとして いる。ご参加いただいた来賓の皆様方に、改めてお礼申し上げたい。 ●さて、かたや20周年、かたや50周年のイベントだが、振り返ってみると年数 は違うが、その間の世の中の変化には非常に大きな違いがあることに気がつ く。京都リサーチパーク(以下略称KRP)は20年前1989年(平成2年)に、現 在の地で設立された。現在の地とは、京都の下京区、中央市場に近い大阪ガス の大きなガスタンクがあった土地だ。遠くからもその巨大なガスタンクははっ きり見えて、2基あり当時の象徴的なガス製造業としての建物だった。大阪ガ スイコールガスタンクというイメージだった。 <世の中どんどん変わった> ●ところがガスの原料が天然ガスに変わり、巨大なガスタンクは不要になり、 ガスの製造設備も変わった。そうなると、その広い敷地も不要になり、いろい ろと長いいきさつはあったが、最終的に住宅地にならずに、京都府、京都市、 民間などの各種支援施設を集合した一大集積支援基地と変貌を遂げた。遂げた と言っても、当初は建物もわずかで、入居した企業もまばらだった。そこから 20年。いまや、いろいろな支援組織が集積し、入居の企業も250社を数え、民 間が経営する珍しい巨大支援センターとして内外から評価を受けている。 ●1989年という年は、バブル経済の絶頂期に近い。おそらく住宅地として売却 すれば、非常に高い値段で売れただろうが、それを見送りこういう施設を目指 した当時の関係者の慧眼には、ただただ敬服するばかりだ。国家100年の計の ような、こういう大きな決断を間違うと、後世に悔いを残すが、それを見事に 克服し、大きな評価を受ける集積センターとしての役割を担う基地に成長し た。現在も建設中の建物もあり、まだまだ発展の予感を感じさせる。この20年 間、かなりのスピードで駆け抜けてきた。 ●診断協会も50周年だが、当初の中小企業診断士としての役割が、財務診断を 行いいい点、悪い点を指摘する立場、役割から、さらに一歩も二歩も踏み込ん で、経営そのもののサポート、マーケティング、IT、知的財産、事業再生、事 業承継、経営革新など、今後の中小企業の発展、成長に欠かせない極めて大き な経営要素を経営者と同じ目線の高さでサポートする、極めてレベルの高いポ ジションになっている。果たして、その大きな期待に応えることができるの か。これは我々自身が答えを出さないといけない。 <継続は変化への柔軟な対応> ●会社が継続するということは、社会や経営環境の変化に対応することだ。大 きく言えば、環境の変化に対応できた企業だけが生き残る。いや、そうでない と生き残れない。高度経済成長の時期には、勝手にパイが拡がった。パイの広 がった企業についていけば、業績は拡大し、そのぶらさがっていた企業も大き くなれた。しかし、いまはそれは許されないし、有り得ない。得意先の事業の 縮小や撤退と共に、自社の事業も縮小せざるを得なくなる。得意先があっさり 中国に行ってしまって、茫然自失の企業もある。 ●得意先の金融機関の事業内容が規制緩和と共に劇的に変化した。発注もとの 自動車会社が、ガソリン車から電気自動車への大転換を宣言した。低炭素化社 会の実現に向けて、石油大手各社がいっせいに太陽光発電パネルの製造に乗り 出した。インターネットの普及で社会構造が大きく変わった。少子高齢化で、 教育産業、塾業界、大手予備校などが一斉に戦略を切替えた・・・・・。など など、挙げればきりがない。農業、小売業、各種製造業、IT業界、どの業界も この激しい変化の大波にさらされている。 ●決してこの大波から逃げることはできない。むしろ、この大波をどううまく フォローの風にするか。そういう意味では、京都は時代の変化を先取し、新進 気鋭の事業家が輩出した土地柄だ。若い人材が新しい時代を切り開いた。琵琶 湖から疎水を引き、発電を起こし、市内に電車を走らせた。小学校を公的支援 に頼らず自分たちで学校を建てていった。人材の教育に熱心に取り組んだ。各 地からビジネスマインドの高い人材が京都に集積した。困難な技術に取り組ん だ起業家を輩出した。 <DNAを踏襲し京都ブランドを高める> ●京都は、京都というだけで「ブランド価値」があるはずだ。首都圏でのキャ ンペーンでのキャッチコピーは、「そうだ、京都、行こう」なのだ。これは、 確かJR東海のキャンペーンのフレーズだが、非常に分かりやすい。京都に住 み、京都で暮らし、京都でビジネスをしていると意外と気がつかない最大のメ リットだ。筆者も、以前に在籍した出版社で全国を営業したときに、敢えて京 都弁で営業をしまくった。イントロから柔らかい京都弁で会話に入った。相手 は、すぐに理解してくれたし、話しもし易かった。 ●いまでこそ、全国ブランドの大企業、ニンテンドー、オムロン、京セラ、日 本電産、島津製作所、堀場製作所、ワコールなどなども、すべて創業からしば らくは、当時のベンチャー企業だったはずだ。いま、数百年続いている京都の 老舗の企業やお店も、全部創業当時はベンチャー企業だった。そこから、継続 し成長した企業は、たった一点、何が違ったかというと、世の中の変化に伴っ て起きたニーズに果敢に挑戦し、トライし、困難を克服し、成功するまでやり 遂げた。たった、それだけの違いだ。ただ、それが、ものすごく大きい違い だ。 ●ひとえに、これは経営者のマインドの違いだ。そもそもの会社の理念がどこ にあるのか。哲学は何か。基礎になる考えはどういうものか。創業してしばら く経過した時点で、改めて見直してみる。もちろん、創業の時点でそれが明確 ならもっといいが、別に少々あとでも構わない。とにかく、会社を経営するに あたっての「こだわり」が大事なのだ。頑固ではなく、世の中の風に柔軟に対 応する「こだわり」。京都の企業には、各社各様にその「こだわり」が明確な 企業が多い。明確な企業ほど、継続しているのだ。