□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第448回配信分2012年11月26日発行 箱を買っても中味がないと事業が続かない 〜ハードを揃える前に人材を育てる〜 □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ <はじめに> ●平成03年前後に起こったバブルの崩壊。その後遺症にまだ悩んでいる企業も 多い。あるいはそのショックで莫大なマイナスを抱え、未だにその大きさから 脱出できない企業も多くある。20年経過して、もう何とかなっているだろうと 思うが、傷が深くそう簡単にリカバーできていない。その傷の深さが大きく て、20年間で少しはリカバーできたが、とても全部挽回できない。そのマイナ スの重たさがずっしり肩にかかって、次の世代へのバトンタッチの足かせに なっている。そんな企業も多くある。 ●当時は本当に信じられないくらいバブルだった。中国も5年後くらいにはそ うなるだろうという不気味な予想もあるが、とにかくおカネがだぶついてい た。金融機関はどんどんおカネを貸す。今からは信じられない時代だが、それ が当然と言う風潮だった。おカネを借りて資産を増やさないと、経営能力がな いと言う烙印を押された。土地、建物、工場、設備などへの投資は、しないと 損だと言われた。ゴルフ場の会員権が一晩で高騰し、売り抜けた人が大きな利 益を手にした。 ●とにかくカネを借りて資産を持つことが正しいとされた。企業のバランス シートはどんどん膨張し、人間で言えば体重がどんどん増えた。増えた体重 は、何とか売上に転嫁できた。体重が増えても、特に気にせずに運営が可能 だった。日本全国がそのように、どんどん仕事が増えていた。企業を設立して も、どんな経営形態でも十分従業員を養えた。そんないい時代の経験をしてい る人に、特に社長業をしている方には、現在の社会環境は全く別物だろう。 <15億円の箱物を買った> ●成岡の所属していた出版社も同様だった。昭和59年にメーカーから転身した のだが、当時びっくりしたのはとことん売上至上主義だった。昨年より、今年 は必ず10%以上成長しているのでないと、おかしいとされていた。毎年10%以 上の成長が確保されれば、ほとんどのおカネに絡む案件は処理できた。それく らい心配しなくても、毎年、毎年10%以上の成長率が当然だった。それくら い、バブルは力があった。設備投資、人的投資など、およそ経営的に重要な案 件でも、ほとんどが対応できた。 ●売上の増加、増大がすべての諸問題を隠蔽するに十分な力があった。何より キャッシュが回っていたので、誰もそれをおかしいと思わなかった。とにか く、出て行くおカネが多いが、ほとんどの部分はカバーできた。月末の資金残 高もきちんと整合性が取れていた。月末は大変でも、何とか辻褄をあわすこと はできた。その状態で15億円の本社ビルの購入の案件が持ち上がった。当時、 相当な借入残高があり、この15億円は相当重たい負担になると、誰もがわかっ ていた。 ●しかし、結果は私募債を発行して購入した。私募債が発行できた。京都市内 に5箇所散っていた事務所を統合し、大阪の人員も吸収し150名が15億円の新 ビルに移転した。移転費用だけで10,000千円以上したのを覚えている。狭いと ころから、広いところに移るのだから、引越しも楽勝だった。移転直後は、各 階のレイアウトも随分余裕があった。この移転の作業は、幹部のH君に委嘱し た。成岡は当時営業の第一線にいたから、移転の総指揮を取るのはできなかっ た。 <4年後に撤退した> ●箱は確保し見栄えは非常によくなった。以前は3階建てのエレベーターもな い古い建物で五条大宮に近いところから、四条新町の街中に出てきた。外観も きれいで新築だから、みんな舞い上がった。移転後の1階のロビーにはそれこ そ飾りきれないくらいの移転お祝いの花が飾られた。各部署が各階に散らばっ て、最上階に社長室、役員会議室、経理部などが陣取った。それはそれでよ かったが、途端に各部署の意思疎通に支障をきたした。小さな会議でもメン バーを集めるのに苦労した。 ●せっかく京都市内に散っていた社員を一同に集めたのに、かえってコミュニ ケーションが取りにくくなった。なにやら大企業病のような雰囲気も出てき た。営業部門と編集部門の距離がどんどん遠くなった。以前なら、ワンフロ アーにいて手に取るようにその動きが分かったのが、フロアーが違って一気に 情報共有が難しくなった。部門ごとの垣根も高くなり、メンバーがフロアーご とに派閥を形成するようになった。全体最適から部分最適に移行するのに時間 はかからなかった。 ●結論から言うと、約4年後にそのビルから撤退した。まず、バブルがはじけ て業績が急激に悪化、坂道を転がるように転落した。私募債償還の目処が立た なくなった。15億円で購入したビルを賃貸ビルにして、少しでも家賃収入を得 ることに切り替えた。そして、150名の社員は全員、もとの古いビルに戻っ た。しかし、その移転作業は大変だった。なにせ、いったん膨張した身体を一 気にスリムにしないといけない。大半の什器、資料は廃棄した。移転に莫大な 費用が要った。 <まず人に投資が先だった> ●実は、その撤退移転の総指揮を任された。狭いところから広いところに移転 するのは簡単だが、逆は至難の業だ。それでも、誰かがこのいやな役回りをや らないと進まない。仕方が無いから、引き受けた。4年前にお祝いの花で埋 まったロビーに、廃棄する什器が所狭しと置かれた情景は、今でもしっかり目 に焼きついている。新町通りを通る人が移転作業を、じっと見ていた。針のむ しろのような気分だったが、気持ちを切り替えて頑張った。非常に辛い数ヶ月 だった。 ●古巣の建物には、そのままでは収容できないことが判明し、非常に慌てた。 移転当日にも業者の方を呼んで、パーテーションの撤去作業などまでやった。 そうして、何とか押し込んだ。なにせ、翌日からきちんと業務が回らないとい けない。そして、引っ越したビルをすぐに片付けて、一日でも早く賃貸収入を 得るようにしないといけない。孤軍奮闘の日々が続いて、何とか2ヶ月くらい で格好はついた。ほっとしたのも束の間、一層の資金繰りの危機が訪れた。 ●そして、その数年後に会社は破綻した。振り返って、いったいこれは何だっ たのだろうかと、いたく反省した。反省しても遅いが、そこで得た結論は、こ ういうビジネスは箱物に投資するより、人に投資したほうが正しかったのだ と、自分なりに結論が出た。いくら新品できれいな箱を用意しても、結局価値 を生み出すのは箱ではなく、人なのだ。至極当たり前の結論に至るのに、莫大 な費用と時間、労力をかけた。何と、あさはかだったと気が付いたのは、宴が 終わってからのことだった。