**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第588回配信分2015年08月03日発行 中小企業の経営者が日ごろから備えること その86 〜けじめの記念の年を設定しそこに目標を立てる〜 **************************************************** <はじめに> ●いつもの野球ネタで恐縮だが、3年後の2018年、平成30年にわが母校の高校 硬式野球部が創部50周年の記念の年を迎える。思い返せば、昭和43年の秋、当 時軟式野球部だった洛星高校野球部は京都市の秋季大会で決勝戦で平安高校を 破り、優勝した。その後まもなく、監督の西野先生が軟式野球部から硬式野球 部への転換を決断された。そして、43年の秋に軟式野球部は硬式野球部に変わ り、昭和43年が硬式野球部の記念すべき創部の年になっている。当時高校2年 生の成岡と相棒の池田君とが最上級学年で2人だった。 ●今でも鮮明に覚えているが、食堂の手前の和室に呼ばれて監督さんから硬式 野球部への転換を告げられた。そして言われたことは、とにかく2人は高校3 年の最後の夏の大会まで残ってやることだった。この硬式野球部への転換を機 会に絶対に辞めないことだった。それには、理由がある。監督の西野先生は京 都教育大学で野球をやり、地元では有名な選手だった。その人が洛星の体育の 教師に赴任したのが昭和40年。実は在学という意味では成岡が1年先輩なの だ。そして、中学1年の体育を担当する。 ●その時成岡は中学2年生。中学3年生の部員はいなくて、いきなり中学の最 上級学年になった。2年生は10名程度いたが、そこに西野先生が体育の授業で 運動神経のいい1年生を大量にピックアップして送り込んだ。いきなり部員が 30名を超え、大所帯になった。中学3年生は誰もいないし、おっつけ我々2年 生がチームを引っ張ることとなる。キャプテンに任命され、運動神経のいい1 年生と共に部活動に邁進した。なかなかいい結果は残せなかったが、後輩たち の力量は素晴らしく、彼らが3年生になったらすごいチームになるだろうと期 待できた。 <高校2年生秋の決断> ●そして、成岡達が高校に進学した当時、高校野球部は軟式野球部だった。高 校2年生はゼロ。高校3年生は当時数名いたが、高校3年生になると一部の運 動部を除いてたいていの3年生は勉強に専念するために退部するのが慣習だっ た。よって、高校軟式野球部は部員は我々高校1年生だけとなった。しかも、 中学までは10名近くいたメンバーが、この時点で2名になっていた。当然試合 には出られない。仕方なく、成岡と相棒の池田君とで中学生チームのコーチを することになる。 ●コーチと言っても練習のお手伝い。バッティングピッチャーから始まり、内 野ノックのノッカー、シートバッティングのランナー、時には実際に守ったり もする。グランド整備から後片付けまで、何もかも一緒に1年間ひたすら彼ら が高校に進学するのを待っていた。その成果が出て、後輩の中学3年生は夏の 大会で快進撃。京都市の大会で準優勝し、府下大会に進出するまでになった。 学年は1年上だったが、我がことのように嬉しかった。その中学3年生たちが 高校に進学し、成岡と池田君の2名と一緒になり京都市の新人戦で優勝した。 ●多分に彼らのおかげなのだが、この優勝をきっかけに硬式野球部への転換が 決断されたのが、昭和43年の秋。そして、高校3年の夏の大会までやると決め てからが、大変だった。練習が大変より、環境を整えることが大変だった。ま ず、資金。硬式野球へ転向するには多額の資金が必用だ。道具、バックネッ ト、グランドなどに多額の費用が要る。これは先輩諸兄と父兄会が全面的に バックアップしていただいた。次にグランド整備。石ころだらけのグランドを 硬式のボールでできるようにするのは大変だった。 <夏の大会が終わって放心状態> ●ようやく硬式野球部としての体裁が整ったのが、昭和43年の11月。運悪く、 それまで皆勤賞だったのだが、流石に心労と体力的な疲れから急性盲腸炎を患 い、1週間学校近くの外科病院に入院し手術した。そして退院していきなりグ ランドに行ったが、とても硬式のボールをさわれる状態ではなかった。秋の大 会は当然参加できずに、翌年の春季リーグ戦がデビューとなった。その前、春 休みに初めて高知県安芸市に春合宿に遠征した。初めて硬式のボールで試合を したのが、安芸市の安芸高校だった。結果は覚えていない。 ●帰途、高知市内の有名な土佐高校と練習試合をさせてもらったが、相手は2 軍が出てきた。それでも勝負にならなかったと覚えている。そして、05月から の春のリーグ戦が始まる。ここで確か3試合やって、相当自信をつけた。そし て、初めての夏の選手権の京都府予選に参加した。結果は、初戦鴨沂高校にな んと7回コールド勝ちした。忘れもしない、昭和44年07月20日。アポロ11号が 人類初の月面着陸に成功した、その日だ。当時、KBS京都TVが開局記念で全試 合中継してくれたが、誰も試合を見ていなかった。 ●初出場の進学校が初戦を勝利したことは、当時の新聞でも大きく取り上げら れた。しかし、実力はそこまで。2回戦は福知山商業に大敗した。そこで、成 岡の夏は終わった。半ば放心状態になり、しばらく何も手が付かなかったのを 覚えている。創部の頃の辛い思い出、安芸の春合宿、そして高打率を残した春 のリーグ戦、夏の大会初出場での初戦勝利など、走馬灯のように次から次へと 思い出が甦る。ようやく、気分をリセットできて勉強に集中したのは、随分後 からだった。それくらい、想いは強烈だった。 <3年後にこうしたいと願うことが大事> ●とにかく辞めないで最後までできたこと。それは、池田君と言う中学1年生 からの相棒がいたから、なし得たことだ。とにかく2人で最後までやるんだと 誓ったから、中途半端にはできない。そんな昭和43年の創部から、3年後に50 周年を迎える。嬉しいことに、今年の中学の野球部が京都市の夏の大会で優勝 した。京都府の大会では準決勝で優勝したチームに敗れたが、昨年秋の大会で は京都府で優勝した。このチームは全員3年生で、バッテリーが素晴らしい。 特にピッチャーのM君は非常に素質がある。 ●3年後の創部50周年に彼らが高校3年になり、夏の全国選手権が100回の記 念大会を迎える。夏はトーナメントで難しいが、春の選抜は21世紀枠という特 別枠もある。とにかく、眼の黒いうちに一度甲子園の土を踏みたいとOB誰もが 願っている。そのために、50周年記念事業を立ち上げる予定だ。OB会長は後輩 にバトンタッチしたが、最後のご奉公と思って記念事業だけは、ちゃんと何か を残してけじめをつけたいと思っている。そういうメモリアルな年度を設定 し、そこへ向かってエネルギーを集中すればいい。 ●毎年、毎年、同じように頑張るのだが、やはり何かメリハリをつけないとい けない。ずっと毎年コンスタントに業績を維持するのは難しい。しかし、何 か、今年は特別にこうなんだとか、3年後の平成30年はこういう年だから、そ のときにこうしようとか、目指すマイルストーン(置石)を決めると自然とそ こに向かって身体が動くものだ。同じように毎日はできないが、3年後にこう したいと願うと、意外と近づくのは容易だ。願わないとできないものだ。3年 後、創部50周年を考えると、いろいろとやる気が出てくる。目標を掲げるの は、大事なことだ。