**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第607回配信分2015年12月14日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その5 〜社会人生活に大きな影響を与えた組合活動〜 **************************************************** <はじめに> ●前回は3年連続して工場の運動会の応援団のリーダーをして、3年連続応援 合戦で優勝したとの内容だった。毎年、毎年、新しいメンバーで新しい演目を 考え、新しい振付を行うのは、正直大変だった。しかし、この3年の間に個人 的には結婚をし、独身寮を出て工場の近くの1軒家を借り、長女が生まれ、さ らに無謀にも新居を購入し引っ越すという大技までやってしまった。そのどさ くさの中での3年間連続優勝は、自分でも快挙だったと思う。実は、入社した 昭和49年はオイルショックの翌年で、しばらくその影響で新人が入社しなかっ たのだ。 ●毎年新入社員の学卒者が応援団長を仰せつかるという伝統があったようだ が、オイルショックの業績の低迷から学卒新卒者の入社が3年間ほどなかった のだ。僅かに、大学院生の数名の採用は奨学金の関係であったようだが、ほと んどが修士か博士なので、広島県大竹市の中央研究所勤務になる。愛知県の豊 橋工場に配属される新卒学卒者は数年間、皆無だった。よって、成岡の後輩は 数年間なかったので、結局毎年応援団長をやるはめになったのだ。貧乏くじを 引いたと思うか、チャンスだったと思うか。 ●さすがに業績の低迷もリカバーして、昭和52年くらいから学卒者が入り始 め、豊橋工場にも新卒者の配属が数名だが始まった。それで、ようやくお役御 免になったというわけだ。何も好き好んで毎年応援団長を引き受けていたわけ ではない。しかし、やる人がいないのだから仕方ない。頼まれたら断れない性 分なので、毎年お引き受けするはめになったのだ。しかし、この応援団長を引 き受けた3年間で、工場内での知名度は抜群に上がり、ほとんどの人の知ると ころとなった。3000名の従業員の工場だった。 <組合の役員に推薦される> ●さて、その応援団長を3年間やったおかげ?で、組合の支部長の眼に止まる ところとなる。当時の支部長は北澤さんといって、成岡が所属していた隣の部 署の課長代理だった。学歴は高卒だが、優秀だったのだろう。高卒者では当時 非常に珍しく、管理職の一歩手前までになっていた。組合はユニオンシップと いう制度で、加入や非加入の選択肢がなく、従業員で非管理職であるなら全員 が加入する組合だ。当時の労働運動は、社会党系の総評と民社党系の同盟が、 その覇権を争っていた時代だ。三菱レイヨンの組合は全繊同盟所属だった。 ●まあ、御用組合といえばそれまでだが、苦しいオイルショックの合理化を経 て、組合と会社は運命共同体だった。是々非々の立場で、協力するところは協 力する、できないところはできない。明確な意思表示の下で、岐阜県にある本 部のもと、各地にある事業所には事業所ごとに支部が組織され、だいたい300 人の従業員に対して1名の組合役員が選出されていた。当時の豊橋工場は3000 名の従業員だから、10名の組合役員がいた。3000名のうち、300名が大卒学卒 者なので、1名の大卒組合役員がいる計算になる。 ●当時の大卒学卒者の組合役員は木村さんといって、成岡の大学の先輩にあた る。同じ化学系の出身で、技術課に所属し、テニスもうまく、よく可愛がって もらった。その木村さんが課長代理から課長に昇進し、組合員の籍を離れるの で、新しく学卒者の組合役員を1名補充する必要があった。それで、隣の部署 の支部長の北澤さんが、木村さんと相談して成岡にご指名の白羽の矢が立った というわけだ。改めて要請されて、断る理由もあまりなく、木村さんからの強 い推薦なので、お引き受けすることにした。これが、また後の人生に大きな影 響を与えることになる。 <規範部長を仰せつかる> ●さすがに、3000名の従業員の組合役員だから、あまりいい加減なこともでき ない。北澤さんに、組合役員というのは何をするのか尋ねたところ、毎月2回 ほどある役員会に出席して意見を言ってくれればいい、それだけだ、というご 沙汰だった。まあ、それなら負担にもならないし、特にややこしいこともない だろうと安直にお引き受けすることにした。このときに、もっと周囲の人にい ろいろと情報収集をしておけば、また違った展開になっていかもしれない。し かし、意外と安直に、イージーに引き受けてしまった。役職は規範部長という 一番の閑職だった。 ●規範部長とは、従業員組合員が就業規則に触れる行為をして、会社から懲罰 などを受けた場合に、会社に対して異議を唱えたり、就業規則の改定が従業員 に不利に働くような場合は、会社側と交渉することを責務とするポジション だ。しかし、運命共同体の会社と組合だから、このような件で表面沙汰になり 争議に至ることは、まずない。あったとすれば、事前に支部長や専従の書記長 に相談があり、内々にうまく落としどころを見つけて穏便に処理される。規範 部長の出番など皆無なのだ。 ●だから、常時組合の仕事はない。お約束の月次に2回ほど役員会があり、終 業後の18時くらいから2時間ほど敷地内にある組合事務所に集まって、情報交 換や報告事項を聞いたり、岐阜県の本部からの指示連絡などを確認する。そし て、終了後、車で通勤する人以外は、おきまりの会社の横にある「倶楽部(当 時はそう呼んでいた)」という厚生施設の居酒屋で一杯やることになる。北澤 支部長は豪傑で、自宅も工場のすぐ近くだったので、遅くまでよく飲んだ。専 従書記長の林さんは下戸で飲めなかった。意外と楽しい時間だった。 <会社との経営会議が勉強の場に> ●定例の役員会以外にも、年に数回工場幹部との経営会議というものが開催さ れる。工場幹部は10名ほど。当方の組合役員も10名ほど。必ず岐阜の組合本部 から組合長が来て(当時は矢野さんだった)、一緒に会議に参加する。会社側 は、取締役の工場長始め本社から担当役員が来たりする。だいたい工場幹部と 言うのは、部門の長だから、総務部長、製造部長、設計部長、工務部長、技術 部長などほとんどが学卒者だ。対する組合役員側は、全員が高卒者で、成岡だ けが学卒者の組合役員になる。 ●初めてこの会議に出席したとき、当然ながら新任の組合役員の成岡は一番 端っこの末席だった。真ん中に本部からの組合長がいて、その横に支部長の北 澤さん、逆側に専従書記長の林さん、以下序列順に並ぶのが通例だ。そして、 2時間ほど会社からの経営状況の説明、豊橋工場の個別の経営問題などを協議 する。もちろん、事前に支部長や書記長に議題の打診や協議内容のすり合わせ がある。ほとんど揉めることはないが、賃上げやボーナスの闘争時期などは、 意外と白熱した議論になる。 ●この経営会議に初めて出席したのは、26歳のときだった。入社して4年目の 春だった。非常に新鮮で、こういう場面もあるんだと初めて知った。これはい い勉強になると、会社側の説明内容が分からないときには積極的に質問し、発 言もした。唯一の学卒者組合役員だから、300名の代表だとの自意識もあっ た。末席の新参者が積極的に発言するので、意外と真剣に答えてもらった。そ して、お決まりの終了後の幹部との懇親会で、また部長クラスの人たちとの距 離が近くなった。本当に、いい勉強をさせてもらった。退職するまでの7年間 ずっと役員をしていた。 何気なく引き受けた組合役員だったが、その後の人生に大きな転機をもたら す。