**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第612回配信分2016年01月18日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その10 〜組合選挙活動の専従後に起こった人生の転機〜 **************************************************** <はじめに> ●女子の電話営業部隊のマネジメントも非常に難しかったが、それにも増して 困難を極めたのは、最終の票固めだ。選挙戦も終盤戦になると、それまで態度 を保留したり、決めかねていた方が、だんだんややこしくなる。最初の後援会 活動の段階の頃は、まあ双方ともまだ本気ではない。それが、告示のあとくら いから、段々投票日が近付くと、地元の候補者もあるし、当然会社以外の縁の ある方からの依頼もある。一家の家族の中での票の割り振りのようなことも起 こる。告示までの票読みから俄然状況が変わってくる。 ●30万人の豊橋市の市会議員の定員は、当時は40名。選挙権のある人が80%と みて、24万人。地方選挙、特に地元の市会議員選挙の投票率は結構高いから、 だいたい80%。総投票数は約20万票。それを立候補者数の約50名で割ると平均 4,000票。トップ10名はダントツの投票数を稼ぐから、最後のボーダーライン は3,000票くらいになる。大学の入学試験と同じで、最後の10名くらいのとこ ろは、ほんの10票前後の差で当落が決まる。最後の最後は、土壇場まで当落が 決まらない。即日開票の深夜までもつれ込む。 ●成岡が関知しなかった初回のHさんの出馬のときは、組合会社一丸となった 活動が、実って確か5位当選だった。Hさん本人も最初の選挙で緊張感もあ り、何もかもすべてが初回だったので、わき目もふらずとにかくどんどん突っ 込んでいった。その無心が実って、想定外の得票で何と初回で上位当選。それ も5位という誰もが想像しなかった、びっくりの結果だった。やはり、過去の 成功体験も何もないから、がむしゃらに一心不乱に頑張った。本人もスタッフ も、運動員も、とにかく全員が集中していた。 <過去の成功体験があだになった> ●ところが、4年後の第2回目の選挙では、確か22位という中位以下の当選 だった。このとき初めて成岡が選挙活動に組合役員として参画したのだが、当 初から2回目という気の緩みがあった。前回はこうだったから、今回もこうだ ろう。前回はこれでうまくいったから、今回もこれでうまくいくだろう。成岡 は初回の参画なので、前回との比較はできなかったが、あとで言われてみる と、確かに慢心があったのだろう。何でもそうだが、活躍した次のシーズンに も、同じくらいの結果が出せて初めて実力なのだ。 ●しかし、人間のやることなので成功体験の呪縛から抜け出すのは、難しい。 特に、初回の4年前の初陣の選挙で、誰もが想像しなかった5位という上位当 選で初陣を飾ったので、やはり心のどこかに慢心があったのだろう。選挙活動 は、全員一生懸命やったのだが、結果は22位という我々にとっては惨敗に近 かった。当然、選挙に勝利はしたが結果は想定をはるかに下回る結果となり、 選挙事務所は落選したようなお通夜の状態に近かった。このときほど、予想と 言うものがいかにあてにならないかということを、身に染みて感じた。 ●最後の票読みも甘かったのだろう。家族全員が後援会に加入してくれてい て、ご主人が従業員、奥様もパート社員、ご主人のお父さん、お母さんも同居 という4名家族なら、最低2票は当方の候補者に入れてくれるだろう。そう期 待しても、おかしくはない。しかし、最後の最後で、この票がどんどん切りく ずされる。特に、前回上位当選したので、他の地元の候補者からHさんは大丈 夫、大丈夫という宣伝が流布される。そして、こちらの陣営も最後の詰めに走 らない。かくて、最後の数日間で多くの票が他候補に流れた。 <慢心が不幸な結果を生む> ●選挙だから、誰が誰に投票したかは分からない。分からないが、おおよその 想像はできる。特に開票所ごとの候補者別の得票数は公開されるから、事前の 票読みと大きく違う結果の投票所もわかるのだ。その地区を担当していた役員 運動員は非常にまずい気持ちになる。営業で言えば、担当者ごとに売上高を公 開されているのと同じだ。成岡の担当していたいくつかの地区でも、おおよそ 想像できないくらい乖離した地区が数か所あった。初めは、どうしてか理由は よく分からなかった。誰に聞いても沈黙して、非常に重たい雰囲気だった。 ●このときほど、適当な予想、想定がいい加減なものだと、骨身にしみた。別 に22位だからいいじゃないかという意見もあったが、それは気休め。ご存じか と思うが、上位当選者から希望の委員会に所属できる。やはり、企業内市会議 員なので、産業政策とか地元に貢献できる分野の委員会に所属したい。それが 中位から下位の当選になると、表現は悪いがあまりぱっとしない委員会の席し か残っていない。その所属する委員会の活動次第で、次回の選挙の結果が左右 される。やはり、上位で当選することは必須なのだ。 ●22位で当選したときの慰労会はさながら反省会でもあり、非常に重たい雰囲 気だった。確か、1泊で遠方に泊りがけで出かけたと思うが、あまりいい記憶 が残っていない。やはり、初回上位当選の驕り、慢心、気の緩み、最後に来て の詰めの甘さが原因だったという総括はなされたが、じゃあどうすればよかっ たんだ?という質問には全員が沈黙してしまうこととなった。最後は選対委員 長の支部長だった北澤さんの、鶴の一声で「次回はこの轍は踏まないぞ」とい う掛け声で解散したが。 <2つの大きな転機を断る> ●そして4年後にまた3回目の選挙があり、このときは前回の反省から最後ま で褌を締めて戦った。最後の最後、最終日までとことんやり尽くし、もうここ までやったからあとは運を天に任せればいいや、とまで思えるようになった。 結果は確か10位くらいの上位当選で、3回目の選挙にも勝利した。このとき も、半年間選挙事務所に専従運動員として詰めたが、さすがに成岡としては2 回目の経験なので、比較的落ち着いてあまりばたばたせずに自分の責任を全う できたと思っている。そして、終了後、またドラマが起こった。 ●2つの大きな出来事があった。ひとつは、労働組合本部の専従で出向しない かというお誘いだった。豊橋支部では任期2年間の4回目くらいになり、賃上 げや賞与の闘争の担当の調査部長と言う、結構重鎮の職責についていた。なの で、しょっちゅう本部のあった岐阜市内の労働組合本部の会議や東京本社での 労使交渉に参加していた。当時の組合本部も10名くらいの陣容だったが、新陳 代謝、世代交代の時期だった。そこで、本籍を離れて組合に出向しないかとお 声がかかった。随分悩んだが、丁重にお断りした。 ●もうひとつ、4年後の市会議員の選挙からもう1名の企業内候補者を出した いので、その気はあるか?との打診を非公式にいただいた。つまり、Hさんは もう3回当選したから、自力で継続できる。もう1名会社としては出したい。 その気はあるか?というお誘いだった。大卒本社採用の立場で、ぼちぼち課長 代理直前の管理職一歩手前だから、本当はあり得ない。結果的に、これもお断 りしたが、もし、仮にそうなっていたら、その後の人生は全く違ったものに なっていただろう。今でもそう思う。決して後悔はしていないが。