**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第622回配信分2016年03月28日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その20 〜初めての海外出張は驚きの出来事の連続〜 **************************************************** <はじめに> ●大きな投資をしたポリエステル工場の増設、新設プロジェクトが一段落し て、やれやれと思っていたときに、突然のS部長からのお呼び出しで言われた のが、40日間の海外出張の案件だった。これを説明するには、少し字数が必要 だ。当時、所属の三菱レイヨンのポリエステル事業は、オランダに本社がある AKZOInternationalという企業から、莫大な費用を払って技術導入をしてい た。戦後、日本で化学繊維、合成繊維などの製品を製造しようと思えば、海外 から技術を買うしかなかった。東レ、帝人、旭化成などの大手も同様だった。 ●東レはデュポンから、帝人はICIからだったと記憶しているが、とにかく化 学繊維の世界では一部の日本発の繊維を除き、大半は海外の大手メーカーから 技術、パテント、特許を買って、そのノウハウで日本で化学繊維を製造してい た。まだ、そんな時代だった。三菱レイヨンは、三菱系の化学繊維会社として は後発で、海外のビッグネームには割り込めなかったから、オランダの化学系 大手企業のAKZO社からポリエステルの製造技術、ノウハウを技術導入した。お そらく昭和30年代の後半くらいだったと思われる。 ●もともと三菱レイヨンの大きな工場は広島県の大竹市という岩国に近い西部 の土地にあったが、ポリエステル事業を日本で立ち上げるときに、企業誘致の 国策に沿って、愛知県の豊橋市の企業誘致に乗って、大きな工場を建設した。 そして、その地でポリエステル事業の製造ビジネスが立ち上がった。北陸の産 地にも近く、大きな市場の関東と関西の中間地点ということも、地の利の強み と判断したのだろう。当初は、オランダの本社から相当数の外国人技術者が頻 繁に訪れて、立ち上がりの面倒を見たという。 <初めての海外出張を即決> ●成岡が入社した昭和49年1974年当時は、さすがにもうオランダの技術者から は手は離れていたが、それでも全世界に多くの工場や研究所を持っていて、各 地でいろいろな最先端の技術開発がなされていた。その世界各地で行われてい る最先端の技術を、相互に発表し、工場や研究所を相互訪問し、研鑽を深める という会議やツアーが毎年10月に行われていた。その会議に、毎年S部長は必 ず参加し、2名ほどの課長クラスの技術者を同行させていた。今回は、そのメ ンバーに参加しないかというお誘いだった。 ●成岡は当時まで海外に行ったことがなかった。まだ為替レートが300円くら いの時代だったと思うし、確か一定金額の持ち出し制限もあった。新婚旅行を 海外でという贅沢組もちらほらいたが、成岡は返還間もない沖縄を選択した。 なので、海外に行ったことがなかった。S部長曰く、「君は海外に行ったこと があるかね?」と聞かれた。当然、「いや、行ったことがありません」。 「行ってみたいかね?」。「行きたいと思います」。「じゃあ、行くか。10月 だよ。ただし、国際会議で英語で20分くらいの発表をしないといけない。準備 したまえ」。 ●「????」。何が何やらよく分からない、初めてのやりとりで、前後も分 からなければ、その経過、理由、内容もよく分からない。「あの〜〜〜」。と 話したら、机の上から分厚い書類を出してきて、渡された。「ここに、要綱が 書いてあるから、よく読んで準備したまえ。細かいことは、一緒に行くK課長 に聞きたまえ。以上だ」。こういう会話で、第1回目の成岡の海外出張が始 まった。とにかく、とりあえず渡された書類を抱えて、工務室に戻った。向か いのH課長代理が、「何の要件だった?」と聞いてきた。本当の話しはできな かった。 <まず一番大事なのは体力> ●それまで、出張と言えば東京の本社か、広島県の大竹市の中央研究所、岐阜 の組合本部だけだった。それが、いきなり海外。しかも、40日。国際会議。英 語の発表。わけの分からないことだらけで、非常に不安になった。預かった英 語の書類の文字を、いくら読んでも頭に入らない。よく考えたら、これはえら いことだと分かってきた。海外に行きたいだけで、安請け合いしたが、どうも そんな物見遊山の海外出張ではないようだ。次第に、汗が出てきて、頭が混乱 してきた。とにかく、同行するK課長に話しを聞きに行くことだ。 ●内線電話でアポを取って、別棟の技術課へ出向き、会議室でK課長からいろ いろと教わった。K課長は昨年からS部長に同行して、この国際会議に参加して いた。今年度の国際会議のテーマが、新しいポリマーの開発というテーマだっ たということも分かった。成岡が当時担当していたテーマとぴったりだったの で、S部長が選んだのだろうということも分かった。3日間のアムステルダム での会議、その後の20日間のヨーロッパ各国の研究所や工場訪問。それが終 わってからアメリカに飛んで、最後メキシコで終わる日程も教えてくれた。 ●昨日まで、工場の生産現場と開発現場で作業服を着て、走り回っていたの と、まるで別世界の話しだった。K課長は昨年初めてS部長に同行して、同じ30 日間くらいの海外出張に行っている。何が一番大事ですか?と聞いたら、即座 に「体力」と言われた。「とにかく大変やで。体力がもつかどうかが勝負。時 差もあるし、食べ物も変わる。何より、毎日英語で暮らさないといけない。相 手からの接待会食も連日ある。移動距離も長い。報告書も毎晩書かないといけ ない。とにかく疲れる。だから体力が一番大事や」。 <急に慌ただしくなった> ●だんだん、事情が分かってきた。とりあえず、その日は預かった英語の書類 を一生懸命、読むことに集中した。スケジュールの詳細は未定だが、10月中旬 にアムステルダムの本社で3日間国際会議があること。初日の午後から研究発 表のプレゼン時間があり、日本の割り当ては初日の夕方だった。そしてその 晩、WELLCOMEPARTYがある。翌日も同様の発表があり、3日目に締めくくりの 総括会議がある。その後の各地を訪問するスケジュールはこれから調整すると いう。ただ、後半にアメリカ、メキシコに行くことは決まっていた。 ●プレゼンの発表テーマを早く決めるように言われた。当時担当していたいく つかのテーマの中なら、候補を選びS部長に決めてもらった。自分が担当して いるテーマだから、発表するコンテンツはたくさんあるが、それを英語のスラ イドにしないといけない。まだ1980年当時だからパソコンもなければ、パワー ポイントもない。学界の発表のように、ブルーがバックで白抜き文字のスライ ドを作らないといけない。もちろん英語だ。当然、発表も英語で20分やらない といけない。あまり英語がダントツで得意でないから、これもやっかいだ。 ●発表の抄録を作成し、参加者に事前に配布するので、09月の初めにはスライ ドと要旨が完成しておく必要がある。それと、どの工場や研究所に、いついつ 行くかということが順次決まってくる。そうすると、その相手先に事前に質問 状を送って、聞きたいことを予め伝えておく必要がある。当時、メールもFAX もまだなく、テレックスという国際電報のようなものでのやり取りだ。パス ポートも取らないといけない。俄然、慌ただしくなってきた。それより、所属 の現場長に報告しないといけない。周囲からの見る眼がどうも大きく変化して きた。