**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第623回配信分2016年04月04日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その21 〜飛行機に乗るまでの準備段階が大事〜 **************************************************** <はじめに> ●アムステルダムでのAKZO本社での国際会議(InternatinalMeeting)は、こ の1980年度で13回目。従来は、やり手のS部長と東京本社の課長クラスが出席 していた。テーマは毎回異なるが、主に紡糸(糸を製造する工程)や延撚(糸 に撚りをかける工程)などの後工程のテーマが多かったそうだ。ところが、こ の1980年には重合工程(ポリマーを製造する工程)のテーマだった。そこで、 豊橋工場の重合開発部門に所属していた若干27歳の成岡が選ばれた。光栄なこ とだったが、周囲の目も厳しかった。 ●なんで若いお前が選ばれたんだ?とあからさまな態度が、周囲で一斉に巻き 起こった。成岡の周辺には、製造現場や開発室に40歳から30歳くらいのマネ ジャー、課長代理などの役職者が多く在籍していた。千載一遇のチャンスに、 自分達をさておいいて若いスタッフが選ばれたことに、背中を押してくれる方 もあったが、大半はネガティブな反応だった。10月10日から40日間留守をする となると、その間の仕事の段取りも必要だ。周囲に迷惑をかけることにもな る。海外出張が正式決定になってから、数回部門での会合がもたれた。 ●1週間くらいの出張ならいざ知らず、40日間となると相当長い。07月に正式 に広報されてから、留守中の段取り、準備と、会議でのプレゼンの準備、各国 の研究所や工場への訪問準備で俄然慌ただしくなった。しかし、周囲の雰囲気 はとてもサポートしてもらえる雰囲気ではない。一人で孤軍奮闘して頑張るし かないと覚悟を決めた。とにかく、留守中トラブルがあってはいけない。仕事 が停滞してはいけない。まず、そこに万全を期すことにした。国際会議の参加 は、自分だけの問題なのだ。 <英語の発表原稿で苦しむ> ●なんとか留守中の段取りに目途をつけられたのは、開発部門にいたT君の協 力あっての賜物だった。T君は成岡より3歳年長の高卒者の技術屋さんだ。高 卒だが優秀で、入社後大卒者扱いへのコース転換試験に合格した。完全に同じ 処遇待遇にはならないが、一般の高卒者とは歴然と扱いが異なる。このT君と よく一緒に仕事をしていたのだが、彼に一番留守中の負担がかかる。しかし、 彼は快く留守中の面倒な仕事を一杯引き受けてくれた。日常の人間関係のなせ る業だった。日ごろのコミュニケーションが大事だ。 ●留守中の業務に目途が立ったので、次に国際会議でのプレゼンの準備を始め た。当時、パソコンもなければパワーポイントもないので、スライドでの20分 間の発表だ。20分間でのスライドは約30枚。スライドの英語の原稿はあまり問 題なかったが、課題は発表でしゃべる20分間の英語スピーチだった。あまり抜 群に得意でない英語で、いかに流暢に話すか。まずは、原稿を書いてみたけ ど、全く自信がない。専門用語は結構わかるが、つなぎの文章が慣れていない ので出てこない。さあ、困った。 ●仕方なく、当時名古屋大学の工学部にいた父親に研究室の若手にチェックを 依頼した。研究室は土木工学だったが、流石に若手のドクターの英語力は素晴 らしく、一杯の赤字で原稿が戻ってきた。これで、何とか20分のプレゼンの準 備もできた。しかし、この流暢な英語のプレゼンがあとでマイナスの影響を及 ぼすことは分からなかった。つまり、英語のプレゼンが上手すぎたのだ。あと で、いろいろな質問がでたり、パーティで流暢な英語でいっぱい話しかけられ て往生した。身の程以上の丈のことをしてはいけない。 <訪問先への質問状でも立ち往生> ●次に取り掛かったのは、各国の研究所や工場へ送る事前の質問状の準備だ。 S部長や本社のスタッフは毎年各国のメンバーとの交流があり、どの研究所で どのような研究をしているのかを、よく分かっている。また、各国の製造工場 の設備、製品、人員体制、環境などの主要なデータも知っている。しかし、愛 知県の豊橋市の工場の片隅で働いている我々とは、日常あまり縁のない世界な のだ。そこに、急に質問状を送れと言われても、予備知識もなければ資料もあ まりない。四面楚歌になって茫然となった。 ●時間がなかった。仕方ないので、過去に海外出張に行った方に片っ端から連 絡して、分かる限りの情報をゲットすることにした。一番詳しいのは、当然ボ スのS部長なので、休日にはテニスのあと、よくS部長の社宅にお邪魔してビー ルを飲みながら、取材を行った。当時、S部長は東京に立派な自宅をお持ち で、豊橋市には単身赴任だった。しかし、広い幹部社宅をあてがわれていたの で、そこに毎月数回奥様が東京からいらしていた。そのタイミングを狙って、 お邪魔してとことんいろいろなことを聞きまくった。 ●それでも、行ったこともなければ見たこともない工場や研究所の話しを、い くら詳細にメモしても頭には入らない。そして、分かったことは現地に行った ら、それぞれ別行動ということだ。S部長は工場幹部とミーティング、K課長は 紡糸延撚の現場スタッフとミーティング、成岡は重合開発スタッフとミーティ ング。だから、全部自分の責任で質問し、答えを引き出し、メモし、サンプル やデータをもらわないといけない。朝、先方に行ったら、すぐに別れて一日中 一人ぼっちなのだ。誰も助けてくれないようだ。 <大きなキャリーバッグに荷物が満杯> ●聞けば聞くほどいろいろなことが分かって、段々自信がなくなってきた時期 もあった。40日間の海外出張を、安易に引き受けたのが間違いだったかと思っ たことも、一度や二度ではなかった。後悔しかかったが、その都度勇気を奮い 起こして、千載一遇のチャンスだと頑張った。即席の英会話の勉強もラジオで 始めたりした。そして、お盆が終わったころから、カバンの中味や持っていく 資料などの具体的な準備作業を始めた。しかし、初めての海外なので、何が必 要で何が大事なのか、よく分からない。 ●色々な書籍や雑誌などを見たり、買ったり、集めたりした。行程も段々具体 的になってきた。まず、成田からアンカレッジ経由でロンドン。当時は直行便 がまだなかった。そして、ロンドンからアムステルダム。そこで3日間の国際 会議があって、その後オランダ、西ドイツ、フランス、スイスなどの工場や研 究所も3日間ずつくらい巡る。合間の土曜日、日曜日は先方が用意した観光ツ アーがある。そして、3週間くらいの後に、ヨーロッパからアメリカに移動。 ロスアンゼルスから、ジョージア州に入りアトランタ近郊の工場へ。 ●このアトランタ周辺に10日間くらい滞在してから、テキサス州ダラス、そし てメキシコの本社と工場に1週間。最後、ハワイで時差の調整とすぐにある東 京本社での出張報告会での資料作成で2日間。だいたいざっとした行程が見え てきた。もらったIATAのフライトチケットが1冊では収まらず、2冊あった。 トラベラーチェックの購入や、身の回り品、背広、ワイシャツなどを買い込ん だ。そして、先方に持参する手土産がまたたくさんあった。京都まで買い出し に行った。普通のキャリーバッグには入りきらないので、新しく大きなのを 買った。次第に緊張してきた。