**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第626回配信分2016年04月25日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その24 〜その後の人生に大きく影響を与えた三菱レイヨン時代:最終回〜 **************************************************** <はじめに> ●失礼ながら超一流というようなグレードの企業ではなかったが、大卒から10 年間在籍した三菱レイヨン時代の色々な経験や体験は、その後の人生に大きな 影響を与えた。ちょうど10年間、22歳から32歳まで。その間、結婚もし、子供 も生まれ、自宅を購入したりした。当時住んでいた愛知県の豊橋市の北部の牛 川という地域は、温暖で気候もよく、風が強かったのがマイナスだったが、そ れ以外は非常に土地柄は気に入っていた。地元の三河弁の言葉は、少々べらん めえ調で乱暴だったが、それも愛嬌だった。 ●一番上の女の子がもうすぐ小学校に上がるという、まさに直前の秋に、義理 の兄が突然当地を訪れ、自分が創業した出版社への移籍を要請してきた。格好 よく言えばヘッドハンティングだった。しかし、当の本人は会社の仕事に十分 満足していたし、任されていた責任もぼちぼち大きくなりつつあった。32歳学 卒10年というポジションは、課長代理という職責になり、部下も数名抱え、一 定の決裁権限もあった。管理職と一般社員との中間的な存在で、逆に両者の利 害を調整し、バランスを取るポジションでもある。 ●特に最後の3年間は、開発重合関係の部署から技術課へ移籍し、ポリマーの 新規開発から紡糸などの糸の製造にも深く関わるようになり、いっそうの勉強 が必要となった時期だった。さあ、もうひと頑張りするか、と意気込んでいた 矢先のお誘いだった。正直、相当悩んだが、こういう案件は悩めば悩むほど結 論が出ない。リスクを取る覚悟で、えいやっと決断した。32歳だった。本人は 決断すればあとは結構楽天的だったが、一番反対されたのは成岡の両親だっ た。なんで大企業にいるのに、わけの分からない中小企業に行くんだと。 <応援団の団長・組合の役員> ●振り返れば、22歳で愛知県の豊橋工場に配属され、いきなりオイルショック の大不況、大リストラの洗礼をまともに受けた。その傷口が多少癒えた段階 で、復活した工場の大運動会の職場の応援団長を3年間仰せつかった。そし て、3年連続応援合戦で優勝し、高卒者の寄宿舎の主要なメンバーとも、本当 に昵懇の人間関係ができた。結婚式は京都で行ったが、豊橋に新婚旅行から 戻ってきたときに、地元で彼らが盛大にイベントを開催してくれた。多くのメ ンバーが参加し、祝福してくれた。今でも忘れられない。 ●その活躍が認められての組合役員への就任要請があり、分からないままお受 けした。お受けしたら、活動内容は事前に聞いていたのとは大違い。活動の大 半は選挙活動であり、運動員であり、応援スタッフを束ねたり、選挙カーに 乗ったり、最後は臨時の選挙演説の弁士まで務めた。しかし、この選挙活動の 経験は、のちに営業活動をするときに、大いに役立った。この選挙の経験がな ければ、おそらく初めて営業をやれと言われたら、尻込みしただろう。何と 言っても、工学部化学学科卒の技術屋だから。 ●そして、2回の市会議員選挙の選挙活動を経験し、2回ともに上位当選を果 たし、最後には地元の市会議員選挙に出ないかという、冗談とも本気ともつか ないお誘いまで受けた。それはさすがにお断りしたが、ほとんど同時に10月か ら11月にかけての2年連続の40日間海外出張を経験させてもらった。この海外 出張の話しは、前回まで数回にわたってこのメールマガジンで書いたが、本当 に厳しい海外出張だったが、当時大先輩の尊敬するS部長の指導のもとで、何 とか大役を果たすことができた。 <40日間の2回の海外出張> ●この40日間の海外出張が2年連続であり、出張の後始末をして少し落ち着く のが12月の初めくらいだ。そして、年末年始の生産調整と年末休転工事の段取 りがある。24時間3交替の連続操業の工場だから、年末年始は生産調整をし て、一部のラインを停止し傷んだ箇所や機械のメンテナンスを行う。そして、 年始に稼働するのだがその時にいろいろとトラブルが発生する。そうして、1 年間があっという間に過ぎていく。そのようにして10年間お世話になった工場 を辞めるときは、さすがに後ろ髪を引かれる思いだった。 ●また、仕事以外では独身寮横にあったテニスコートでテニス三昧を繰り返 し、独身寮の麻雀部屋に入り浸ったり、部活ではサッカー部に無謀にも所属 し、東三河の社会人3部リーグの公式戦に出たこともある。本職は野球だが、 当時工場には野球部がなかった。また、休日にはテニスをしたり、土曜日は浜 名湖周辺のゴルフ場に出かけたり、渥美半島へ釣りに誘われたこともあった。 とにかく、地方都市なので土地が余っていて、遊ぶことには事欠かなかった。 楽しい10年間だった。 ●ただ、10年間の大企業生活の間では、目前でいろいろな大企業独自の出来事 も経験、体験した。異動してこられたやり手のS部長の下で、我々技術屋は本 当に頑張った。業績も徐々に回復し、技術水準も上がり、コストダウンも大幅 に達成した。省エネ、省資源、省力化というのが当時のキャッチフレーズだっ たが、とにかく必死で達成しようと、全員でベクトルを合わせて乗り切った。 S部長の人心掌握のマネジメントは素晴らしく、今でも尊敬しているビジネス マンのお一人だ。そのS部長が不遇の異動の目に会う。 <S部長の異動に衝撃> ●大企業とは、なるほどこういうものかと、その時唖然としたことを覚えてい る。豊橋工場の業績をV字回復させ、次回の異動では取締役に昇進して東京本 社へ栄転と誰もが信じて疑わなかった定例の人事で、こともあろうに子会社に 出向という辞令が発表された。S部長と同期で入社の東大を出たK部長が取締役 に就任された。S部長とK部長は会社の中でも、いい意味のライバルで同時に取 締役になるというのが、社内の通説だった。しかし、ふたを開けてみれば、結 果は全く違っていた。大企業の人事とは恐ろしいと、そのとき感じた。 ●社内通の人に言わせると、S部長は仕事は抜群だし、業績も文句ない。しか し、それがあだになり少々上のポジションの者からすれば、非常にやっかい だ。特に、東京本社への物言いには相当にとげがある。現場のことがわかっと らんと、常に厳しい言葉が本社へ突き刺さっていた。それをよしとしないメン バーも相当数いたのだろう。逆に同期のK部長は温厚な人柄で、調整能力は抜 群。修羅場はS部長で、平時はK部長なのかもしれないが、S部長を尊敬してい た豊橋工場の我々は、その人事通達に唖然となった。 ●この異動に対する受け止め方も、その後の転職の伏線になったことは否めな い。大企業で出世するのは、実力以外の運、時の運、人間関係、縁などという 自分だけではどうすることもできない要素もあるのだと、初めて知った。そこ に、義理の兄からの熱いラブコールが突然飛んできた。人生の転機とはそんな ものなのだろう。京都に戻ろうと決めたのは、そんなに時間はかからなかっ た。しかし、周囲への説得が大変だった。昭和59年02月、大雪の京都に10年ぶ りに戻ってきた。懐かしかった。 次週から、「移籍した中小企業で経験したこと」シリーズを始めます。