**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第633回配信分2016年06月13日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その31 〜移籍した中小企業で経験したシリーズ:社運を賭けた大型企画〜 **************************************************** <はじめに> ●確か、昭和60年の春ごろにスタートした大型企画は、当時のその他の大型企 画の1企画2億円をはるかに上回る費用がかかる、それこそ社運を賭けるよう なビッグプロジェクトだった。しかし、最初はそんなことはわからない。だん だん、企画を詰めていく過程で、これは相当えらいことになるとなったのだ。 当初は、まず、いつも通りA4の数枚の企画書から始まった。たしか、東京の八 重洲にあった某大手印刷会社の営業部門が入居していたビルの会議室であった 会議から、それは始まった。 ●当時、社長室という部署の責任者を拝命し、大型企画のマーケティング調査 の責任者であったので、当然のことながらその会議にも参加のお声がかかっ た。当時、これくらいの大型企画の会議だと、代表取締役社長、営業部門の責 任者である専務取締役、企画編集部門の責任者である取締役、それと成岡の4 名くらいだった。相手方の某大手印刷会社からは企画担当部門の役員以下、数 名の幹部が参加していた。そこで、先方から「看護企画」のプレゼンテーショ ンがあった。当方の代表取締役がそれに乗った。 ●乗った理由は、いくつかある。まず、対象となる読者の市場が大きいこと。 おおよそ、当時で60万人といわれ、女性の職能集団としては最大規模の市場で あった。次に、技術の進歩が顕著だった。医療現場の看護技術は日進月歩であ り、時代がそれを後押ししていた。つまり、彼女たちは常に勉強しないといけ ない環境にあった。また、医療の技術も進歩が著しいが、看護の技術の進歩も 目覚ましかった。そして、高齢化の大きな波が医療や看護の現場にも押し寄せ ていた。もう、待ったなしの環境だった。 <総監修を日野原重明先生に> ●当初は、大型企画のほんの数枚の企画書だけだった。しかし、これ以降当時 の出版社での具体的な企画の詰めが始まった。残念ながら、当時の会社に看護 分野の編集の専門家はいなかった。誰も、その市場のことはわからず、読者の ことは理解できず、医療や看護、病院や診療所などの医療現場に精通している 者はいなかった。そこで、当時社長室の責任者をしていた成岡に白羽の矢が 立った。実は、その1年前に健康関係の大型企画の販売調査を担当した経験が あった。それも、後押しした材料になった。 ●まず、企画の内容をもっと詰める必要がある。誰もこの分野の専門的な内容 がわからないので、この分野の専門家に意見を聞く必要がある。さて、誰が適 任かということになり、この人選がなかなか難しい。こういう場合は、過去の 類書を片っ端から調べて、その分野での権威は誰か、誰が適任かというのを徹 底的に調べる。また、その周辺の領域の専門家に意見を聞きに行く。2か月ほ どの調査の結果、やはり総監修は当時の聖路加看護大学の学長の日野原重明先 生にお願いするのが、一番いいとの結論になった。 ●結論はそれでいいが、全く縁もゆかりもない。つてもなければ、とっかかり もない。さて、どうしようかと思案に暮れたが、当人のプロフィールを調べた ところ、運よく卒業が京大の医学部だった。それなら、同窓のドクターが京都 にいるはずだと思い、いろいろな名簿を調べたら、当時WHO協会の理事をされ ていた左京区のS病院の院長先生が知己であることが分かった。さっそくS病院 に出向き、紹介状を書いていただき、それを聖路加看護大学の秘書の方に送っ て、アポイントの電話で訪問することが決まった。 <面談はいつも「箱乗り」> ●昭和60年の夏ごろだったか、当時東京築地の聖路加看護大学の学長室を訪れ た。秘書のNさんに面会し、控室で待つこと30分。学長室に通されて、初めて 面談した。執務のデスクに書類と書籍が山積みになっていた光景は、今でも忘 れられない。初対面なので、一定時間の世間話から始まるかと思えば、いきな り用件を切り出された。これが先生との運命の出会いの始まりだった。以来、 10年にわたり親しくお付き合いさせていただくことになる。依頼した総監修 は、ふたつ返事で引き受けてもらった。ほっとすると同時に、肩の荷が降り て、どっと疲れた。 ●それからは、ほとんど秘書のNさんを通じてのやりとりだったが、目次建 て、各巻の監修者、執筆者など約700名近くの執筆者の人選などに深く関わっ ていただいた。いろいろと細かい打ち合わせがある都度、聖路加看護大学の学 長室に出向き、毎回30分くらいだが都度いろいろと教えをいただいた。非常に ありがたいことだったが、ひとつ難点は先生の自筆の字があまりにぐちゃぐ ちゃで読めないことだった。文章を自筆で修正してもらうと、ほとんど続き具 合と字が読めない。横の秘書室でNさんに翻訳してもらって、ようやく日本語 になった。 ●あと、超多忙なので時間がなかなか取れない。なので、築地の聖路加病院か ら永田町の砂防会館にあった別の診療場所に移動する際の、車によく同乗させ てもらった。その車中で先生は弁当箱からサンドイッチを取り出し、牛乳と一 緒にクイックランチをする。その30分くらいの車中のランチタイムにいろいろ な相談事を持ちかける。そして、すぐに答えをもらう。あるいは、東京から京 都、大阪に講演に来る新幹線のグリーン車の横の席を予約してその傍に同乗さ せてもらっていろいろと打ち合わせをする。これを「箱乗り」という。 <営業は全員新卒で行う> ●そのような涙ぐましい努力を重ねて、ようやく見本の8ページくらいが完成 した。さあ、これをもって、いろいろな医療機関、看護教育機関などへ出向い て、得意の市場調査をしないといけない。見開きページの完結、疾患に対する 看護処置、看護技術、医療処置と看護処置、最新の医療機器と薬剤の解説な ど、専門的な内容なので、当方も相当にわか勉強をして、随分この分野には詳 しくなった。病気に関しては、いっぱしの知識人になった。そして、京都周辺 からまず読者対象になる看護師さんに市場調査を始めた。 ●親戚に大阪の某公立病院の副院長がいたので、その方に依頼してその大手公 立病院の看護部の数名のスタッフに調査をしたのを手始めに、京都、関西、東 京、地方などの多くの医療機関の看護部、併設の看護学校、大学の看護部教 員、保健師団体、厚生省のお役人、日赤や済生会の大手公立医療団体などにア プローチをかけ、全国を走り回った。なにせ、予算規模がどんどん膨らみ、総 額で6億円という大型企画3本分のビッグプロジェクトに膨張していた。オー ルカラー、総ページ数5000ページ、完結に2年間かかる企画だ。 ●総監修は聖路加看護大学学長の日野原重明氏。18巻で疾患別になり、最後の 18冊目は看護技術の総論巻。執筆者は多くはドクターだが、看護技術の部分は 看護教育に秀でた方に依頼した。循環器、呼吸器、整形外科などの疾患別に巻 建てし、それぞれを4部構成にすることも決まった。最初の1冊目ができる予 定が昭和61年の春と決まった。さあ、1冊目ができたらすぐに販売活動を始め ないといけない。この営業チームをどうするかで、また喧々諤々の議論が起 こった。そして、全員新卒学卒の営業チームを新しく編成することが決まっ た。その責任者に指名された。社運を賭けたプロジェクトだ。