**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第640回配信分2016年08月01日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その38 移籍した中小企業で経験したシリーズ 〜営業部門から管理部門への異動〜 **************************************************** <はじめに> ●約20名の新卒営業社員と4名のマネジャーを残して、成岡の急な異動が社内 に通知された。このチームとは、昭和60年の秋くらいから4名のマネジャーと 寝食を共にし、61年の春に20名の新卒社員を受け入れた。そして、前半は全く 営業成績が挙がらず、非常に辛い思いをした。京都の本社の会議に戻って参加 しても、なにせ数字が出ていないから、言い訳ばかりになる。社内では営業が 素人の成岡に、社運を賭けたようなビッグプロジェクトを任すから、このよう になったんだと責める人も多かった。とにかく、針のむしろだった。 ●しかし、開き直って営業スタイルをがらりと変えた後半戦、特に12月以降は 「売らない営業」というスタイルが定着、浸透し、徐々にみんなの自信が回復 してきた。月間5,000千円以上を挙げる社員もいて、士気は高まった。数名の 落伍退職者が出たが、第2期生を数名補充し、事業部としての営業成績も、よ うやく軌道に乗ってきた時期だった。日本全国を4チームに分け、成岡は東日 本を主に担当していたが、毎日の数字の結果を聞くのが楽しくなった。やっと 永年の苦労が少しずつ報われてきた感があった。その矢先の異動だった。不本 意だった。 ●編集企画部門の役員が、数名の若手マネジャーを引き連れて脱藩した。代表 取締役の義兄社長に反旗を掲げたクーデターだった。社外に出て法人を設立 し、完全に競争相手として認知せざるを得なくなった。社内が浮足立ち、特に 編集企画部門の動揺は激しかった。なにせ出版社だから、商品=書籍や雑誌を 発行しないと、全く売り上げが立たない。責任者がいなくなった企画編集部門 は迷走を始めた。特に企画部門では今後どのような企画の方向性で行くのか に、迷いが出てきた。学術専門書の出版社というコンセプトが崩れだした。 <女子新卒営業チームができる> ●そんな中で、社内の引き締めの意味もあったのか、営業部門の第一線で走り 回っていた成岡に京都本社への異動のお達しがあった。後任は決めてもらった が、新卒者の採用から現在までの経過、商品の企画から発売までの経緯、医療 分野特に看護師市場の知識などを、一夜漬けで引き継ぐのは難しい。一番引継 ぎができないのは、4名のマネジャーとの人間関係だった。立ち上げから一緒 に苦労を共にしたメンバーと、途中で急に移籍したメンバーとでは、なかなか 言葉が通じない。急な異動だったので、引継ぎ環境を整備する時間もなかっ た。 ●この迷走も、その後の業績の長期低落傾向の一因になった。逆に、前向きな 意味では、当時新卒者での営業という、かって経験したことのない未経験分野 ではあったが、半年の辛抱の後、事業部としての形はできてきた。特に、数名 の新卒者営業社員が、びっくりするような数字をたたき出すこともあった。怖 いもの知らず、と陰口をたたかれたが、一向に気にしなかった。すべて結果が ものをいう世界であり、やってなんぼだと開き直った。加速度がつくかのよう に、次第に営業成績も良くなった。 ●これを見た営業の責任者であるM常務取締役が、他の事業部の営業も新卒者 に切り替えると言い出した。特に、翌年発売予定の料理分野の新商品の営業 チームを女子新卒者チームで編成するというプロジェクトが立ち上がってい た。料理、飲食、菓子業界に向けた大型専門書企画であり、女子の営業チーム を作るという。この採用活動も始まろうとしていた。また、メディカル事業部 が販売していた「看護医学全18巻」の編集作業も大詰めを迎えていた。しか し、この編集作業に当初から関わった取締役責任者が、先のクーデターで社外 に出てしまった。 <東京支店がどんどん膨張した> ●新体制では、なかなか編集作業が進まない。配本遅延が発生し、違約金の処 理も膨大だった。社内、社外共に動揺が、直接、間接的に影響が出始めた。ま た、この時期東京地区の人員が急激に増加していた。都内数か所に分散してい た手狭なオフィスを、便利な場所に1か所に集約しようという案も浮上してい た。神田に2か所、水道橋に2か所、新宿に2か所、秋葉原に1か所など、分 散していた東京都内のオフィスをお茶の水と水道橋の中間地点に新築した賃貸 ビルを一棟借りして集約しようというプランが持ち上がった。 ●結果的には昭和63年の12月に移転することになるこのプロジェクトの責任者 のお鉢もまわってきた。この東京地区のオフィスの集約により、東京地区での 企画編集制作機能が大幅に強化された。集団脱藩というアクシデントの影響 で、京都本社は学術書のごく一部を担当するのみとなり、多額の投資が要る大 型企画、雑誌企画、海外翻訳企画などは、ほとんどが東京支社に集約されるこ とになった。当然、東京支社の人員は急激に膨れ上がり、高額の報酬で外部か らの移籍組が多数中途採用で入社することになる。 ●東京支店に出張で行くたびに、新しい顔ぶれのメンバーと相対することにな る。人件費がみるみる膨れていった。また、一棟借りしたビルの賃貸料も膨大 だった。新卒者の営業チームの増設、東京支店の膨張と諸経費の高騰など、売 上も伸びてはいたが、費用の膨張がそれをはるかに上回るスピードで追い越し ていく。当然、キャッシュはマイナスになり、借入金も増えてくる。先行投資 とはいえ、相当なお金が動いている。とき、まさに昭和の終わりで、平成バブ ルの入り口に差し掛かるときだった。金融機関は、どんどんおカネを貸してく れた。 <新町四条上ルに新本社を買う> ●当時の会社全体の売り上げは確か60億円くらいだっただろうか。社員が200 名を超えて、東京支店、京都本社、大阪支店、広島支店、名古屋支店、福岡支 店、仙台営業所、札幌営業所などに分散していた。当然、各拠点に責任者はい るが、それぞれ日常の業務に追われ、ほとんどがプレーイングマネジャーだっ た。また、ほとんどの責任者がきっちりしたマネジメントの経験がない。発展 途上国の元気がいっぱいと言えば聞こえはいいが、本当にこれで大丈夫なんだ ろうかと、不安もあり、心配もあった。しかし、会社は変化の速度を緩めな い。 ●またまた、京都本社の増改築の案件が持ち上がった。当然、京都本社も場所 は手狭になっている。結局、3階にいた企画制作編集部門を一時期別の場所に 避難させて、4か月くらいで増改築し、そのフロアーに2階の管理部門や営業 部門を移動させて、さらに4か月の工事を行う。そして、完成した時点で一気 に移動を行うという離れ業を行った。ほぼ1年がかりの民族大移動の途中で、 初の女子営業チームの新卒社員の採用活動を並行して行った。目も回る忙しさ だった。若かったからできたのだろう。 ●女子営業新卒社員の採用活動が活況を呈する秋ごろに、ようやく増改築が完 成した京都本社で最後の役員面接を行った。多少ともましになった京都本社 だったが、最終面接に来た女子の採用予定者に京都本社の印象を聞いたとこ ろ、「とっても古くて、汚くて、陰気臭い」と決定的な一言を言われてしまっ た。非常に我々のハートに突き刺さったコメントだった。特に代表取締役の義 兄にはショックだったようだ。それから間もなく、街中の新町通り四条上ルの 新築ビルに大枚15億円を投じて本社ビルを購入する意思決定を行うことにな る。これが、最後は命取りになったのだ。