**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第641回配信分2016年08月08日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その39 移籍した中小企業で経験したシリーズ 〜京都本社の新築物件購入がつまづきの始まり〜 **************************************************** <はじめに> ●平成元年の新卒社員の入社は、男性より女性の採用のほうが多かった。この 年の春から、大型の新商品の発売を控えていたからだ。料理飲食分野の新しい 大型企画だった。4年前から医学書の分野で、新卒営業チームが活躍してい た。その後、毎年毎年結構な人数の新卒社員を採用していた。まずは、ほとん どの社員が営業部門に配属され、書店の営業か大型企画の直販の営業を経験す る。その後、異動の時期に一定の人数が管理部門や、企画編集部門に異動す る。だんだん人数が加速度的に増えて、もう従来の建屋で吸収できなくなっ た。 ●そこで京都の本社では、結構な費用を投じて大改装をしたのだが、基本の構 造は変えられない。いくら大改装をしたところで、建物の古さは少しのお化粧 では直せない。平成元年の女子の新卒社員の数名が、当時の京都本社の改装後 の建物でもクレームをつけた。これにショックを覚えた経営陣は、ひそかに京 都本社の移転を考え始めた。また、当時関西では、収容できなくなった社員の いろいろな部署が京都市内に数か所分散していた。成岡は当時、管理部門から 新規事業部門に異動していた。別のビルに入っていた。 ●京都市内に数か所、さらに大阪の中央区に2か所分散し、賃料もバカになら ない。全員を集めて会議をするのも、移動にも時間がかかるし、面倒だ。分散 しているから、部門間の意思疎通を図るのも難しい。当時は、今と違ってグ ループウエアもなければメールやクラウドもない。情報を共有するのは、会議 などで一堂に会さないと難しい。会議をするにも、相当な時間を犠牲にし、コ ストをかけてやらないといけない。その割には、内容のない議論に終始する。 非常に無駄であり、組織を運営するのも難しい。 <金融機関がどんどん資金を貸した> ●一足先に、東京支社は一か所に集約した。お茶の水と水道橋の中間地点の地 下2階地上6階の新築ビルを一棟借りした。フロアーは分かれたが、いろいろ な部署が一堂に集約されたのは、非常に大きかった。格段にコミュニケーショ ンがよくなり、東京支社は業績は別にして、非常に活気があった。それに引き 換え、京都や関西は分散していたことで、意思疎通がなかなかうまく図れな い。そして、数年前の企画編集部門の役員であった責任者の造反劇などの影響 もあり、経営陣は危機感があった。 ●世間はバブル景気に沸いていた。地価が高騰し、資産がどんどん評価が上が り、含み益が非常に大きくなっていた。株、ゴルフの会員権、有価証券、土地 などの固定資産がバブル景気の過熱と共に、異常なくらい値上がりしていた。 それに伴い、会社の景気もなかば浮かれていた。実態はお粗末だったが世間が そのような浮ついた実態のない景気に沸いていた。金融機関は、手持ちの資産 が高騰するから、とにかく資産を持てという。お金が必要になったら売ればい い。どんどん融資をしてくれた。 ●とにかく借りまくって使い放題だった。どんどん融資をしてくれたし、返済 の心配はなかった。新規の企画や事業にもどんどん固定資産担保で融資をして くれた。当然、貸借対照表の右側の長期借入金が急激に増加し、対する左側の 有形固定資産や棚卸資産の在庫などが、どんどん水ぶくれしていった。書籍の 返品在庫が膨大になり、置き場がなくなり南区の城南宮の近くに1000坪の土地 を購入し、近代的な倉庫を建築した。考えれば売れなかった返品在庫を置くた めの倉庫なのだ。誰もがおかしいと思わなかった。そういう時代だった。 <15億円の新本社購入投資が決定> ●そのときに、某金融機関から本社ビルにふさわしい新築のビルが売りに出た との情報が舞い込んだ。情報の震源は、某信託銀行だったが、繊維関係の企業 が持っていた本社ビルを清水建設が新築した。しかし、ときバブル時代の真っ 最中で、建築資材が高騰し終わってみれば建設資金が膨らんだ。とうとうビル をもっていた会社が支払いができなくなり、手放すことになった。つまり、新 築ビルが一度も使用されずに売りに出たということだ。東京でのビルの集約で 成功したことが頭にあり、一気に新本社購入の案件が持ち上がった。 ●検討する幹部会議が開かれたが、もう結論は事前に出ていた。管理部門を預 かる常務取締役は、メインバンクからの出向だった。購入資金は私募債を発行 するという。15億円だった。当時の売り上げが60億円くらいか。借入金も売り 上げと同じくらいあり、どう考えても借り入れ過剰であり、数字をきちんと検 証すれば、無謀な投資だと簡単に判断できたはずだ。しかし、現実はそうなら なかった。わずか15分くらいの幹部会議で、この投資案件は決定した。という より、事前に結論は出ていた。追認するだけの形だけの会議だった。 ●さすがに借り入れ金額が異常になるので、その点は非常に心配だった。懸念 も表明したが、そんな後ろ向きの発言を一族の役員がするなと、たしなめられ た。もう、何も言えなくなった。形だけの会議が終わり、15億円の投資があっ さり決定された。さあ、決定したら一刻も早く移転をしようということになっ た。またまた、成岡の出番がやってきた。15億円の大枚をはたいて買った買い 物だ。早く稼働させて、早く結果を出さないといけない。急に、移転のプロ ジェクトが立ち上がった。一生懸命汗をかいた。これがミッションだと。 <新本社では大企業病が始まった> ●詳細は省略するが、数か所の京都市内の賃貸契約を順次解消し、大阪の2か 所のビルも解約し、リース契約や電話の移転、住所変更など膨大な移転作業を 黙々と、かつ手際よくこなした。これをすることが最大の責務だと信じて行っ た。数年後、この新本社ビルの購入が命取りになり、経営破綻するのだが、将 来そんなことになるとは思わず、ひたすら毎日走り回った。150名の移転は一 大事業だったが、なんとか辻褄を合わせて期限までに間に合わせた。当時、携 帯電話もなく移転作業は困難を極めた。しかし、広い新しい場所への移転なの で、楽だった。 ●全員が無事に移転して作業が完了したときは、さずがにほっとした。がらん となった旧本社に置いてきたいろいろな什器を片付けて、もうここには戻らな いだろうと思った。しかし、現実は厳しかった。数年後に経営悪化して、ビル を売却してこの旧本社に戻ることになるのだが、そのときはそんなことは夢に も思わなかった。そんな悪夢が数年後に待ち受けているとは、露知らず新本社 の1階の入り口には移転お祝いのランの花で埋まった。金融機関からのお祝い の花で埋め尽くされたロビーでの記念写真は、数年後に悪夢と化す。 ●今まで数か所に分散していたとはいえ、旧本社では狭い場所に営業も編集 も、経理も管理部門も押し込まれていた。密集していたから、意思疎通は早く 楽だった。通路も狭く、横にならないと通れないくらいだったが、それが逆に 良かった。しかし、新本社は非常に広く快適になった。その分、地下1階、地 上6階に分散した各部門は、部門ごとに固まってしまった。ちょっとしたこと が、フロアーが違うと非常に面倒なことになった。全員の顔が見えなくなり、 逆に会議が増えた。大企業病のような兆候が始まった。