**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第647回配信分2016年09月19日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その45 移籍した中小企業で経験したシリーズ 〜あとで考えれば実にバカげた大量返品保管倉庫への投資〜 **************************************************** <はじめに> ●売上のピークは、確か平成3年の秋ごろだったと記憶している。100億円企 業になりたい、なりたいと、義兄の社長が口癖のように言い、誰もがその達成 に向けて馬車馬のように突進していた。本気で株式上場も夢ではないというく らい、会社の活力はあった。しかし、資金も大量に必要となり、新社屋の購 入、毎年の大量の新卒採用、そして多くの新刊書の発行、それにともなう周辺 業務の肥大と膨張などが、いたるところで露呈してきた。しかし、売上が増え る速度はそれを打ち消した。誰もが、膨張を成長と勘違いした。 ●いろいろなことが起こったが、先週号でも書いたように週刊分冊百科の大成 功により、書店ルートの市場展開が急ピッチで進んでしまった。進んでしまっ たので、資金需要も極めて忙しくなった。それは経理担当の某地銀から出向し てきた常務取締役のミッションだったが、その他の社内業務は当時業務管理部 門を担当していた成岡のミッションでもあった。まず、書店ルートの事業に は、数か月後の書籍の返品がつきものになる。おおよそ、発行部数の40%の大 量の返品が、一度にどっと返ってくる。 ●実際には、地方の小規模書店から返品が始まり、徐々に都市部の大型書店か らの返品に移行する。そして、だいたい3か月くらいで返品のピークを迎え る。昭和59年、1984年、成岡がこの出版社に転籍、移籍した当時は物流倉庫 は、1号線の赤池という交差点の西側にあった。坪数150坪。2階建てでなん のへんてつもない倉庫だった。2月に転籍して、まずこの物流倉庫で1か月実 習した。まだ2月で非常に寒かった。手がかじかみ、事務所に戻って石油ス トーブで暖を取る毎日だった。少し転職を後悔したときもあった。 <400坪の新倉庫に設備投資> ●その150坪の倉庫も結構満杯だったが、大型の直販商品が多かったので、入 庫すればすぐに大半は出庫できた。まだ全社の中で書店ルートの割合は微々た るものだった。いくら書店ルートの新刊書が出ても、専門書で初版の部数も多 くて2000部。半分は1年以内に売れてほとんど返品はない。残りが5年くらい で徐々になくなり、倉庫には本当に少部数しか残らない。そんなビジネスモデ ルだから、150坪の倉庫でも、なんとか業務はまわせていた。しかし、雑誌が 出だし、書籍が大量に発行されるに及んで、状況は一変した。 ●雑誌は比較的早く返品が起こる。月刊誌だと、半月も経過すると返品が戻っ てくる。バックナンバーも少しは保管するが、危機的にはならない。書籍は いっときに大量にどっと戻ってくる。150坪の古びた倉庫は、あっという間に 満杯になった。なんとかやりくりしていたが、やはり限界が見えてきた。そこ で、返品を保管する倉庫を新設することになり、土地探しが始まった。当時は バブルの絶頂期。金融機関はどんどんおカネを貸してくれた。特に、出版社と いう業態は資産がない。知的財産が資産なのだが、固定資産が少ない。 ●400坪の新物流倉庫を新設するという案件には、多くの金融機関が好条件で 融資をしてくれた。よく考えれば、この設備投資は何も利益を生まない。外部 の物流倉庫を借りて、賃借料を払うくらいなら自社で資産をもって融資の返済 をするほうがお得ですよという理由しかない。この妙なロジックに騙されて、 確か数億円の資金を融資してもらって、城南宮の近くに400坪の土地を購入 し、最新設備の物流倉庫を建設することとなった。このプロジェクトの責任者 も任された。さあ、張り切ってやったのは言うまでもない。 <さらに返品のための新倉庫が必要になる> ●元来製造業にいたから、数年ごとに増設増設の設備投資を行い、生産量と生 産性を挙げて収益力の向上に寄与するというのが本来の製造業の設備投資の基 本だ。そこに、新技術を織り込んで、付加価値の高い製品を低コストで製造で きるようにする。そして競争力をつけて次世代への収益の種をまいておく。こ ういう基本的なことは10年間の製造業の経験でわかっていたはずなのだが、ど うしてかこの新倉庫の建設案件の際には、そのモードが稼働しなかった。どう 考えても、おかしい設備投資なのだ。 ●売れ残った書籍の置き場がなくなり、400坪の新倉庫を数億円かけて設備投 資する。保管した返品書籍は在庫になり、手元資金の流動性を圧迫する。い や、在庫になったこと自体がおカネが寝ていることになる。定価を下げてバー ゲンセールで売れるなら一時的に在庫で置くことも意味はあるが、本来書籍は 再販維持価格商品であり、一物二価は許されない。資金調達が安易にできたと いう、当時の甘い環境に負けて、この投資計画は承認された。そして、土地を 掘ったら、遺跡の破片が出土した。工事は半年間止まった。 ●半年間の延期を経て、新物流倉庫は完成したが、完成とほぼ同時にあっとい う間に満杯近くなった。当時、週刊分冊百科の大成功の後遺症から、年間100 点近くの新刊書が上梓されていた。それがまともに半分くらいが返品で戻って くる。4トントラックが東京の取次から到着するたびに、パレットに満載され た返品書籍がごったに混ざってフォークリフトで降ろされる。それを見ている と、本当に涙が出るくらい悔しい思いをした。しかし、現実は甘くない。ま ず、目先の返品商品を格納しないといけない。現場は極めて忙しい。 <1000坪の新倉庫を滋賀県竜王町に> ●かくて、2年くらいで新設の城南宮倉庫も満杯になってきた。これは大変だ とばかりに、経営陣は動揺し、さらに間違った判断を下す。こともあろうに、 さらに新設の倉庫を建てようという案が持ち上がった。その面積たるや、1000 坪。さすがに1000坪の土地は京都市内の適当な場所にはなかった。どこでどう 探したのかはわからないが、滋賀県の竜王町という50kmくらい離れた土地に適 当な出物があった。金融機関の紹介でその土地を斡旋してもらい、相当な面積 の倉庫を、またまた新設した。ただし、場所が離れていたので無人倉庫にし た。 ●いったん、城南宮倉庫で受けた返品を2トントラックで毎日、毎日竜王倉庫 に搬入する。パレットごと荷卸しし、空のトラックが戻ってくる。また、返品 がたまり、それを積んでトラックが行くことになる。こんなバカげたことを、 日常業務だから一生懸命数名の社員が毎日やっていた。メンバーが欠勤して足 りないときは、成岡が2トントラックを運転して行ったこともある。現場の社 員は非常にまじめに一生懸命、それがどういう意味があるのかなどは考えず に、ひたすら目先の仕事をこなしていた。我々経営陣の意思決定が間違ってい た。 ●しかし、いったん走り出したこの路線を誰も止めることはできなかった。一 度ついた道筋を水が高い所から低い所に自然に流れるようだった。経営会議や 幹部会議でも、基本的な方針の議論はなく、目先の問題、課題にどう対応する か、それだけが討議された。今月、来月の課題、資金繰り、売上数字などが議 論の的になり、一番肝心な会社の方針を議論する場ではなくなった。そして、 最後まで誰もがおかしいと思いながら、修正も変更もできなかった。徐々に最 後のときが近付きつつあった。その兆候は出ていたのだが。