**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第653回配信分2016年10月31日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その51 移籍した中小企業で経験したシリーズ 〜どうして会社がおかしくなったのか:総括編その2〜 **************************************************** <はじめに> ●300名100億円の売上の会社が、あっけなくバブルの崩壊とともに破綻したわ けだが、その原因をさかのぼると、いまでも思うことが多くある。歴史は繰り 返すし、時間は戻ってこないが、同じ失敗を二度することは避けたい。そうい う意味で、振り返ってみると、これが分岐点だったと思うことが多々ある。そ の中でも、組織マネジメントとして難しいのは、事業所や場所が複数に分かれ たときだ。創業以来、一か所で全員が同じ場所で運営していたときと、複数の 事業所に分かれて運営するときとでは、格段に難しさが異なる。 ●学校の教室と同じだが、成岡達が中学校から高等学校の時代は、クラスの定 員は50名くらいが普通だった。最近は35名くらいと聞いているが、50名を超え るとさすがに入りきらないので、もう1クラス増設する。そうなると、担任の 先生が1名必要となり、当然入る箱も用意しないといけない。箱はハードだか ら、資金があれば作ればいい。しかし、もう1名の担任は簡単に増員すること もできない。なにせ、新しいクラスも同じレベルの教育をしないといけない。 新クラスの担任は新米なので、レベルが低いというのは通用しない。 ●では、簡単に誰かそれをできる人を探せばいい、呼んでくればいい、という ほどことは簡単ではない。新しい人は、やはり組織、文化、風土、常識、もの の考え方など、違う環境の中で育っている。それをいきなり赴任したからと いって、同質化するのは難しい。やはり、一定の時間をかけて、コミュニケー ションを密にし、意思疎通を図り、いろいろなことを共有化しないといけな い。中でも、企業文化、経営理念などを共有化することは、非常に大事なこと だ。これがうまくできないと、2か所目の事業所は、異なる空気、風土、文化 を持つことになる。 <事業所が増えるときにリスクがある> ●最近の上場企業は、グローバル展開と称して、海外へ、海外へと出ていく。 毎日の日経新聞の1面トップには、多くの企業が多額の資金を投入して、M&A で海外の企業を買収して傘下に収めていくニュースが、ほとんど毎日どこかの 紙面で掲載されている。それくらい、国内市場は行き詰まり、成長の種を探し に、海外へ、海外へと飛び立っていく。そして、その吸収した海外企業の経営 を軌道に乗せるまで、一生懸命に同質化、均質化を図ろうとする。言葉の問題 から始まり、努力は多方面に及ぶ。 ●「のれん代」の償却は5年で行うのが普通だが、十分な効果が得られない と、損失が出て減損処理を行わないといけない「ハメ」に陥る。安直に事業所 を海外に増やし、連結売上の規模を追いかける。無理なM&Aを仕掛けると、リ バウンドの火傷も、結構痛い。それほど、事業を海外に展開するには、相当の 準備が要る。特に人材は最優先の課題だ。誰がこの海外プロジェクトを仕切る のか、誰がこの重責を担当するのか。それが明確にならずに、安直に海外へ事 業を進めるには、リスクが高い。 ●振り返って、当時の会社は京都が本社で中枢幹部はほとんど京都本社に在籍 していた。祖業の印刷会社はもちろんのこと、昭和47年にできた出版社の本社 は祖業の印刷会社の2階にあった。東京はどうなっていたかというと、出版社 ができたころは水道橋の西口の小さな場所を借りていた。総武線、中央線のJR がすぐ横を通る古い会館方式の建物で、とにかく電車が通るとうるさかった。 相当長い期間、そこを借りていたが、とにかく出版社の立ち上げ時点では大変 だったのだろう。しかも、社員はほとんどいなかった。 <京都本社から離れて東京の比重が高くなる> ●それが、やはり、出版事業の本丸が東京だということで、次第に東京の社員 が増員されていった。成岡が転職し入社した昭和59年時点では、東京支店は同 じ水道橋の西口だが、非常に立派なビルの確か5階にあった。出版社というこ とで、会社に出入りする外部の方も多く、確かに応接室や打ち合わせのスペー スも必要だ。書店向きの営業を担当する男性も、京都から転勤させて1名常駐 していた。総勢5名くらいの陣容だったと記憶しているが、これくらいの人数 なら、まだ京都本社から十分コントロールできる。 ●会議を京都でするなら、留守番の女性1名を残して、残りの4名全員が終日 京都に来てもらっても、そう支障はない。しかし、転機はすぐに訪れた。当 時、人文科学系の専門書、特に大型の企画を事業としてやっていたのだが、分 野的には人文科学系なので、むしろ京都の編集部が担当していた。その事業が 順調に成長し、売上も年々増加していった。そこで戦略の転換があり、他の分 野へ進出することが決定された。この時点では、成岡はまだ入社しておらず、 その子細な経過はわからないが、分野を変えても大丈夫との傲慢さがあったの だろう。 ●成功体験とは怖いもので、同じ方式が通用すると錯覚する。しかし、ことは そう簡単ではない。仏教書、歴史書、書道関連企画など、当時の経営陣が得意 な分野の大型企画は、ことごとく成功した。営業も、そういう分野に強みを持 つ販売代理店や、子会社の直販会社を作り、そこで中途採用した出来高払いの 色彩の強い中途採用社員の活躍で、年々売り上げは伸びていた。そこで、決定 された別の分野への進出だった。新しい分野は未知の領域であり、当然外部の ノウハウに依存することになる。かくて、東京支店の比重が高まった。 <東京支店の責任者がいなかった> ●年々、東京の陣容が強化された。販売代理店も、東京、首都圏を中心に開拓 が進み、販売代理店の拠点も東京にあった。料理分野、美容分野、建築分野、 電気分野など、従来とは全く異なった分野の専門書が次々と上梓された。ま た、それを販売してもらう代理店も多数傘下で動いてもらっていた。これらの 企画は、京都本社では企画制作できない。東京の外部に存在する外注先の編集 会社や、同業の出版社との提携の企画になる。次第に、東京支店の陣容が、み るみる増員され、あっという間に大所帯になった。外部の連携先も、相当数に なった。 ●昭和60年に医学書分野に進出することが決定された。この企画は大手印刷会 社との提携企画だった。制作費5億円というビッグプロジェクトだった。医学 書なので、当然著者は首都圏に多い。提携した印刷会社の本社も当然東京に あった。そして、この大型企画の営業を担当する大卒新入社員の採用も始まっ た。30名前後の男性の大卒新入社員の半分は東京採用だった。結果的に、東京 支店管轄の人員が、あれよあれよと言う間に、100名を超える陣容となった。 当然、都内に数か所分散し、事業を進めるに非常に効率が悪い。 ●そこで昭和62年の冬に、都内数か所に分散していた事務所を1か所に集約し た。神田に2か所、新宿に1か所、水道橋に2か所など、数か所に分散してい た当時の東京地区の事務所を、水道橋とお茶の水の中間地点に新築された地上 6階地下2階の新築ビルに集約した。しかし、箱を集約しただけで、中のソフ ト、一番大事な東京地区の責任者がいなかった。京都本社と文化の違いはあ れ、経営理念やビジョンを100名上の社員に伝達し、理解させ、事業を引っ張 る責任者がいなかった。担任のいない学級のようで、これが迷走の大きな原因 になる。