**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第671回配信分2017年03月06日発行 成岡の40年の社会人生活の軌跡をたどる:その68 40年の重要なポイントを解説するシリーズ 〜出版業の同族経営の経験その2〜 **************************************************** <はじめに> ●昭和59年02月に同族一族経営の出版社に移籍したとき、その時点では一族で はあったが、32歳からの中途採用であり、最初は取締役ではなかった。社長室 長という、わけのわからないスタッフ部門を新設してもらって、そこの責任者 に収まった。なんのことはない、とりあえず定職がないから、なんでもありの 部署だった。当然部下がいるわけでもなく、上司は社長か従兄弟の専務さん だった。とりあえず数か月現場研修ということで、いくつかの部署を実習させ てもらった。当時の会社の規模は40名、売上が12億円。ほとんど無借金だっ た。 ●東京の水道橋の西口に東京支社があり5名くらいのスタッフが在籍してい た。京都本社に30名強の社員がいた。子会社で専門書の直販を行っていた販売 会社があり、ここの販売員は業務委託契約なので社員ではなかった。さきほど の社員数には入れていないので、この子会社に20名くらいの販売専門の業委託 契約社員がいた。あと、大手の提携していた販売代理店が数社あり、分野ごと に専門的な大型書籍の直販を担当していた。東京、名古屋、大阪、広島、福岡 などに提携先の販売代理店があった。 ●約半年間の実習は、物流倉庫に1か月、書道の専門書の直販部門に1か月、 書籍の書店営業部門に1か月、管理部門に1か月というように、1か月単位で 実際の実務を担当した。書籍の書店営業の実習は、静岡県で1か月行った。年 も近い書籍営業部のW課長に同行し、浜松、静岡、掛川、熱海、清水などとい ういろいろな都市の一番大きい書店さんの外商担当者と一緒に、雑誌の定期購 読のお客さんのお宅に訪問して、京都から持参した美術品や大型書籍の営業を 行った。ほとんど毎日移動があり、静岡県のいたるところを訪問した。 <その後取締役に就任する> ●約半年間の実習が終わって以降は、京都本社に戻り、とうりあえず無任所ス タッフとして一番そのときに会社が直面している喫緊の課題を担当することに なった。当時の一番の喫緊の課題は、営業部門の子会社の中途採用の実務と採 用後の歩留まりの悪さだった。それを振り出しに、採用担当、新規大型企画の 市場調査、大卒新卒者の大規模採用、医学書大型企画の営業責任者、東京支社 長などを数年単位で歴任した。激動の5年間くらいだった。その間、会社の規 模も大きくなり、確か昭和63年に取締役に昇進した。 ●同族一族の会社であり、代表取締役は一番年長の義兄だったから、一番下の 妹の夫である義弟になる成岡の取締役への昇進は非常に慎重だった。直接取締 役への昇進を言われてから、さて、取締役とはどういう役目なのか、ぴんと来 なかった。言われたのは、もうここから雇用保険、つまり失業保険がないこ と、自社の株式を一定数購入してもらうこと、責任が一層重くなること、給与 から役員報酬に切り替えることなどだった。仕事の中身が大きく変わることは なかった、あまり実感は湧かなかった。ただ、名刺だけは新しい取締役の名刺 をもらった。 ●部長職以上が出席する幹部会議という最高レベルの会議が、月に1回京都本 社で12名くらいが参加して毎月開催されていた。ここで、ほとんどの会社の重 要事項が討議され、意思決定されていた。代表取締役、東京支社長兼務の副社 長、専務取締役、常務取締役が役付き役員で、平取締役が数名、役員ではない 部長職が数名という構成だった。ただ、役員であるか、ないかは、あまり大き な要素とは感じられなかった。その部署の最高責任者が部長職以上であり、一 番大きな責任を背負っていた。特に役員になったから、大きく仕事内容が変わ ることはなかった。 <取締役のミッションがわかっていない> ●実はそれが間違いの原因だということには、当時気が付かなかった。役員に なったら、何をしないといけないのか。どういう心構えで業務に当たらないと いけないのか。権限と責任はどうなのか。会社の将来に対して、どのような ミッションを果たせばいいのか。そのような大事なことが、全くわからず、質 問もできず、理解もせず、ただ役員という役割を与えられただけだった。だか ら、見た目も表面的にも、何も変わらなかった。給料が役員報酬に変わった が、形式的なことであり、金額も大きく変動したわけでもない。 ●役員会は開かれず、前述の幹部会議が最高レベルの意思決定機関だった。本 来、幹部会議は執行部門の会議であり、役員会が会社のビジョンや将来どうす るのかを討議し、決定しないといけないはずだった。しかし、成岡を筆頭に当 時の同族一族の役員の中で、まともに経営のことを熟知している人もいなけれ ば、マネジメントの勉強を本格的にやった、修めた実績のある人もいなかっ た。会社を設立し、我流で会社を経営し、時代の風に乗ってここまでやって きた。また、時代も時代で、それで十分会社が機能した。 ●新任の役員の成岡が、正論を言うチャンスはあったものの、いかんせん自分 自身が不勉強であり、レベルが低かった。取締役とは、代表取締役の暴走を抑 え、正論を述べ、会社の将来に対しリスクを回避し、積極的な投資を行い、財 務内容を改善し、企業価値を高めることがミッションだと、誰も教えてくれな かった。何を勉強していいのかわからなかった。当時、それを理路整然と教え られるポテンシャルを持つ人材もいなかった。相当なおカネと時間をかけて、 外部講師を呼んで、講演や研修も行った。しかし、土台ができていないから、 身に着かない。 <破綻してから気が付いた> ●当時の教育研修費は、相当に多額だったと覚えている。しかし、いくら多額 の教育研修費用を投入しても、講義を受ける側のレベルが低かった。成り行き のマネジメントでも、時代が時代だっただけに、何とか経営は切り回せた。金 融機関はおカネをどんどん貸してくれた。少々失敗企画が続いても、資金繰り が回っていたから、あまり問題にならなかった。役員会も開かれないし、大型 企画への大規模の投資案件も、きちんとした会議の決定ではないところで、決 まっていた。役員会という機能は、有名無実だった。 ●成岡も転職後6年目くらいから、まずは取締役になったが、実際に業務内容 はほとんど変わらなかったし、取締役になったという意識も希薄だった。たま に、外部の会議に参加すると、先方が気を遣って「成岡取締役」と会議中に呼 んでもらって、初めて、ああ、そうなんだと意識するくらい、レベルが低かっ た。もう少し早く目覚めて、経営の勉強や診断士の資格にチャレンジしていれ ばよかったのにと、悔やんだことは何度もある。つまり、会社とは団体戦のス ポーツのようなもので、一人のスーパースターがいるだけでは成り立たない。 ●この個々人の取締役のレベルの低さと、取締役会が機能不全に陥り有名無実 化していたことが、のちに破綻した大きな原因だった。会社のビジョン、方向 性、人材を始めとする投資の中身が、ほとんどブラックボックスのまま、日常 だけが忙しかった。プレーイングマネジャーだったが、プレーヤーの役割の方 が大きかった。取締役とは、いったい何をなすべきか。誰も、そんな基本的な ことを知らなかったし、教えて欲しいとも思ってもいなかった。代表取締役は じめ、取締役のレベルの低さが会社を破たんさせた戦犯である。破綻してか ら、そのことに気づいた。