**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第784回配信分2019年05月06日発行 年代別に人生の転機を振り返るシリーズ第1回 10代の転機:硬式野球部への転換 **************************************************** <はじめに> ・今回から数回、過去を振り返ってそのときそのときの大きな決断をひとつず つ総括してみることにする。まさに人生は偶然の連続なのだが、それでもなに かそのときそのときに意思決定をした理由や背景があるはずだ。しかし、その ときは目の前の大きな決断の舞台に上がっているので、自分自身では気が付か ないことが多い。目の前の大きな決断をすることに一生懸命で、大きなグラン ドデザインを描いていたのではない。しかも期限を切られて意思決定をしない といけない。そんなときに、自分自身ではどうだったのか。 ・大きな転機を年代別に振り返ってみることにする。10年ごとを一区切りとし て、年代別にした大きな決断を振り返り、そのときの環境、気持ちの持ちよう などを自分なりに分析してみることにする。まずは、10代。10代は小学校の高 学年から高校卒業くらいまで。私学の小学校を卒業して、洛星中学に入ったの が昭和39年。ちょうど東京五輪開催の年だった。実家と学校が近かったのも非 常にありがたかった。衣笠と洛星のある白梅町は自転車で5分とかからない。 特に、朝は下りなので、非常に速く行ける。 ・中学校の入学式の当日に野球部に入部を申し出た。小学校のときも野球少年 だったので、迷わず中学校に入ったら野球をやると決めていた。いろいろなク ラブをお試しで入部し、しばらくして自分に合ったクラブを選ぶ人もいるだろ うが、全く迷いなく野球部に入部をした。当時の中学野球部は3年生が5名く らいで、2年生は1人。当然試合に出れない情けないクラブだったようだ。そ んなこととは知らずに、門を叩いた。当時の1年生は10名くらいが入っただろ うか。ようやくそれで試合が出来るようになった始末だ。 <たまたま上級生がいなかった> ・人数が足りなかったクラブなので、入部した1年生から数名がいきなりレ ギュラーになり試合に出ることになった。運よく成岡も1番ショートで早速試 合に出させてもらった。そのうちに1人の2年生が退部し、3年生と1年生だ けのチームになってしまった。秋になり3年生が中学野球部を退部すると、 我々1年生だけになった。秋の新人戦は1年生だけで戦い、翌年春の新入生の 入部を待つことになる。そして、ようやく待望の新1年生がどっと入部してく れた。実は、どっと入部してくれたのにはわけがある。 ・成岡が中学2年生になった春に一人の体育の教師が赴任した。この人がこれ から長い付き合いになる西野文雄先生だった。洛北高校から京都教育大学に進 学し、高校ではバドミントンで名前を馳せ、大学では初めて硬式野球をやった にも関わらず抜群の成績を残しての洛星への就職だった。3回生のときに教育 実習でたまたま洛星を選んだのが縁だった。それまでの中学の監督さんは野球 の素人で、ノックもまともにできなかった。そこにまさにプロの監督が突如現 れた。ユニフォームを着てグランドに立った姿はカッコよかった。 ・新任体育の教師が新1年生の担任にもなり、その影響で運動能力の高い新1 年生がどっと入部してくれた。我々2年生が数名のところに、1年生が20名く らい入部し、あっという間に大所帯のクラブになった。3年生はいなかったの で、我々2年生が中心になりクラブを引っ張ることとなる。部長主将に任命さ れ、クラブの運営を担うことになった。ここが人生の運命の始まりだったかも しれない。上級生がいなかったこと、新たに実力監督が就任したこと、その影 響で運動能力の高い下級生が多く入ってくれたこと。 <軟式から硬式に変わる> ・1年後輩の連中が3年生になると、クラブは俄然強くなった。成岡たちは高 校に進学したが、高校の野球部は開店休業状態。中高一貫の6年間の学校だか ら、グランドは中高でひとつだし練習も一緒にやっている。高校1年生になっ たが人数がいないので高校の試合には出られない。1年間我慢の時期があった が、その間一生懸命下級生の中学の練習の手伝いをしていた。バッティング ピッチャーに始まり、内野ノック、シート打撃では守ったりランナーになった り。球拾いもするしグランド整備もする。なんでもありだった。 ・その下級生を中心にしたチームは快進撃を遂げ、夏の大会では京都市で準優 勝し初めて京都府下大会に進んだ。そして秋になり、彼らが中学野球を卒業し て高校に進級し、やっと高校の野球部の人数が足りることになる。しかし、当 時の高校野球部は軟式だった。しかし、成岡が高校2年生の秋の京都市の大会 でなんと平安高校に勝って優勝するという前代未聞のことが起こった。軟式野 球とはいえ優勝は優勝。西野監督は、この高校軟式野球の優勝を機に、高校野 球部を硬式野球部に衣替えすることを決断する。 ・今でも鮮明に覚えているが、食堂の手前に和室と言う畳の10畳くらいの部屋 があり、当時高校2年生だった成岡ともう1名の同志の池田という残った2名 が呼び出され、硬式野球部への変更を告げられた。相談ではなく決定であり、 結論は決まっていた。問題は、我々残った唯一の2年生二人がそのまま硬式野 球部になったクラブできちんと最後までやってくれるかがだった。監督にすれ ば、せっかく軟式で優勝して硬式野球部に変える決断をしたのに、中心になる 上級生2人が辞められたのではまずいし、格好がつかない。 <最後までやった決断> ・硬式野球部への変更と3年生の夏の大会までの継続を言われたが、特に何も 反対も表明せず、わかりましたとだけ伝えてその場は終わった。これから何が 起こるかが分かっていなかったので、判断する材料がなかった。当初から3年 生の夏まではやろうと決めていたので、格段それが非常に大変なことだとは思 わなかった。単に、軟式が硬式になり、ボールが硬くなるだけだろうと高校2 年生の頭の中はそんなものだった。これで高校軟式野球部が硬式野球部に生ま れ変わることが決定した。あとは、資金集めと父兄への説得だった。 ・想像以上に硬式野球部への転換は一大事だった。グランドの土の入替、バッ クネットの整備、道具の一新、学校の校舎への防護ネットなど、多くの資金が 必要であり、当時の父兄などからも多額の資金援助をいただいた。何より、球 のスピードが違ったし、けがのリスクも大きかった。軟式に慣れていた我々は 当初大いに戸惑った。バウンドが全然違って、そのスピードに当初はついてい けなかった。そして最大のミッションは、最後までやって、何とか志望の大学 へ現役で受かる模範を示すことだ。あとに続く下級生のためにも。 ・昭和44年3年生の夏の大会に初出場して、鴨沂高校と対戦しコールド勝ちで 初陣を飾ったことは記憶に新しい。。2回戦で福知山高校には負けたが、3年 生の夏まで完全燃焼した。3年生の最後までやり切ったことが、のちの人生の いろいろなピンチのときに大きな支えになった。あそこで逃げていたら、いま の人生はなかったかもしれない。しかし、決断のときは意外とあっさりしてい た。感覚的に直感でこれはやらないといけないと思った。理詰めで考えたらNO だった。しかし、やった結果はYESだった。合理的な判断が必ずしもいい結果 を生むとは限らないことを、実感した。