**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第786回配信分2019年05月20日発行 年代別に人生の転機を振り返るシリーズ第3回 30代の転機その1:転職の決断の一部始終 **************************************************** <はじめに> ・30歳代の転機は、何と言っても転職の決断だった。実は、これも前回、前々 回同様に確たる自信と信念があって決断したのではない。まして、誘われて転 職した義兄の経営する出版社の実情をつぶさに理解して決断したのではない。 逆に、ほとんど実態は分からなかったし知らなかった。当時の成岡は技術屋と して10年間、愛知県の豊橋と言う地方の中堅都市で、本当に真摯に真剣に仕事 に取り組んでいた。そこに、青天の霹靂とも言える転職のお誘い。本当は転職 先の実情を分かっていれば、おそらく決断しなかっただろう。 ・転職先の出版社は、創業して12年。従業員40名で年商は12億円あった。規模 が不満と言うより、人文科学系の出版社だというのが、いちばんの悩みだっ た。技術系出身の成岡が全く経験のない、勉強したこともない、理解の乏しい 分野だった。まだ、経済や経営なら多少とも近いが、歴史、考古学、美術、文 学、仏教などというジャンルは、おおよそ最も縁遠い。詳しく聞いていれば、 おそらく断っただろう。ただ、言われたのは実務を期待しているのではない。 創業して10年ちょっとのまだ発展途上の会社だという魅力だ。 ・これから、いろいろな分野に進出したい。専門書だけでは限外がある。学術 専門書以外の新しい分野、特に自然科学系の分野にも挑戦したい。そして、学 術専門書以外にもっと一般人が手に取って読んでくれる書籍を出したい。その ためには、会社の規模、仕組み、マネジメント体制も徐々に変えていかないと いけない。現在は直系の同族だけで経営しているが、他の血を入れたい。その ためのヘッドハンティングだ、と説得された。そこには、現状の経営状態や財 務内容、組織体制などの説明は皆無だった。 <両親が大反対した> ・詳しく聞いても分からなかっただろうし、聞いても理解できる知識はなかっ た。特に財務系の知識は皆無に近かったから、決算書やその関連の資料を見せ てもらっても、何のことか分からなかっただろう。なので、転職先の会社の情 報は皆無に近かった。ただひとつわかっていたのは、家内の長兄が経営者だと いうことだ。そして、その義兄の従兄弟さんが常務で営業の責任者であり、義 兄の弟さんが関連会社の専務、成岡の家内の上の姉の旦那さんつまりこの人も 義兄になるのだが、出版部の責任者だった。 ・なかなか理解し難い同族一族のオンパレードの会社だった。経営者の義兄の 父親は、早くに肺病で亡くなっており、一時的に叔父さんが関連会社の社長、 会長に就任していた。役員会などを開催すると、そのまま同族一族の面々が顔 を合わす会合になり、それこそ法事のあとの会食の様な印象すらあった。年始 の親戚の集まりと全く変わらない。そんな家内の家系の同族一族の中に、全く その分野が素人の自分が飛び込んでやっていけるのだろうかという、大きな不 安はあった。しかし、それを払拭するくらいの個人的な事情があった。 ・個人的な事情とは、まず成岡が長男だったということだ。この時点では実家 の祖父母は亡くなっていた。父親は名古屋大学を定年退職し、京都に戻り寝屋 川の摂南大学に第二の職場を得て、教授をしていた。いずれは、長男の自分は 京都に戻って両親の面倒を見ないといけない立場だった。大企業のサラリーマ ンもいいが、転勤、転勤で落ち着かない。いずれは京都に戻らないといけない 運命だから、今回の転職のお誘いは千載一遇のチャンスとも言えた。しかし、 この転職の件を両親に持ち掛けると、大反対された。 <説得の材料は老後の面倒> ・大反対の理由は、家内の実家の商売に転職するということだった。せっかく 育てた息子が、嫁の実家に人質に取られるという妄想だった。特に、父親は工 学部の教授職を永年やってきたこともあり、家内の実家の事業は全く理解する ことができない。母親は、せっかくここまで立派に育てたのに、何も嫁さんの ほうの商売に転職することはないだろうという理由にならない感情的な理由 だった。しかし、この両親の反対は強硬だった。何回説得に京都に戻っても、 もの別れで決着がつかない。時間はだんだん迫って来て、焦った。 ・もうひとつの理由は、成岡の家庭内の事情だ。長女が幼稚園の年長さんで、 翌年の春に小学校に進学する。もうその手続きが始まっていた。地元志向の強 い地域なので、幼稚園の友達も全員同じ地域の小学校に通う。京都に戻っても 全く友人がいない。長男は幼稚園の年少さんだったので、これも同様の理由が ある。そして、3番目の子供が家内のお腹の中にいた。翌年の3月が予定日 だった。このタイミングで京都に戻る決断をしないと、おそらくこれからずっ と所属の会社で転勤、転勤を繰り返す人生になる。 ・意を決して決断し、京都の実家へ説得すること数回、ようやく実家の両親も 折れて、息子のわがままを受け入れてくれた。最後の決め手は、「誰が両親の 老後の面倒を見るのか」ということだった。成岡の姉は東京に嫁いでいたの で、長男が京都に戻ってくることは悪い選択ではない。まして中小企業だか ら、転勤はない。経営的には分からないが、とにかく自分たちの老後の面倒を 見てくれるだろう長男が京都に戻ってくる選択は悪くない。そう段々考えるよ うになって、俄然転職の可能性が高まり、現実味を帯びてきた。 <自宅を売却し引っ越し> ・最後の障壁は所属していた会社への退職の説得、説明だった。これには相当 のエネルギーが必要だったが、理由が嫁さんの実家の商売に転職するというこ となので、会社側も引き留められない。待遇や仕事、環境に不満があるなら説 得もできるだろうが、奥さんの実家から誘われての転職なので、引き留められ ない。しかし、それはそれとして直属の上司から始まり、事業所長、果ては本 社の役員にまで会いに行けという命令が出て難儀した。珍しく東京の本社の応 接室で担当役員の方に説明したときは、さすがに緊張した。 ・かくて、いろいろな手続きを経て最後に残った関門が住んでいた家の売却 だった。30歳前にこともあろうに自宅を購入していた。地方都市だったので、 狭い小さな家だったが、それでも価格は1,000万円以上した。京都に引っ越し たら、北区の実家に近いところに住まいを探さないといけない。これを購入す ると、豊橋の家が売れるまで二重に住宅ローンを払わないといけない。経済的 にはこれも相当難題だった。しかし、おカネを理由に転職を断る理由はない。 実際には、引っ越して半年して豊橋の家は売却できた。 ・忘れもしない昭和59年の2月11日に京都に引っ越した。家族はその10日ほど 前に嫁さんの実家に移動していた。とくに家内は臨月に近く、とても引っ越し の作業を手伝ってもらえる状態ではない。かくて、毎日毎晩一人残った家で 引っ越しの作業を黙々と一人でやった。そして、前日の2月10日に荷物を積み 込んで、11日の建国記念日の祭日に京都に到着した。左京区の修学院に買った 中古の建売住宅に荷物を運び入れてようやく引っ越しの作業が終わったのは夕 方だった。まだ2月で寒く、雪が残っていたのが印象的だった。これからがド ラマの始まりだった。