**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第791回配信分2019年06月24日発行 年代別に人生の転機を振り返るシリーズ第8回 50代の転機その1:ベンチャー企業への転職 **************************************************** <はじめに> ・勢いで会社を辞めて、自宅に引きこもりの生活が始まった。健康保険は任意 継続にしたが、厚生年金は生まれて初めて国民年金に切り替えた。今でも、年 金の通知文書が来ると、この時期だけ国民年金だった記録が明確に残ってい る。見るたびに当時を思い出して、苦笑いをしている。全く何をするという明 確な計画はなかったが、ぼんやりと数か月就職活動をして、ダメだったら独立 しようかと考えていた。人生そんなに甘くないことは百も承知だったが、勢い で前職を辞めたからには、弱音は吐けない。悲壮な覚悟だった。 ・前職では役員を辞任して、上層部とぶつかっての退職だから退職金もなけれ ば、失業保険もない。その前の出版社は破綻して、逆に借金が残ってしまっ た。輪をかけて、自宅が中小公庫の担保に入り、競売にかかっている。古い家 だから、買う人はないと腹を括ってはいたが、もし買う人が現れたら出ていか ないといけない。幸い、北区に実家があり最悪はそこに転がり込むと、覚悟を 決めていた。家族は嫌だっただろうが、住むところがなくなるよりはいい。実 家の両親は、出版社が破綻し家がなくなるかもしれないことに非常に立腹して いた。 ・実家の両親には破たんの細かい経過までわからないだろうから、破綻の原因 は義理の長兄の代表取締役の経営ミスだと信じて疑わない。嫁の実家の商売に 鞍替えし、見事にひっくり返って、借金だけ残った。こうした張本人は誰だと いうことになり、当然嫁の実家がやり玉に挙がることになる。自分自身も戦犯 の一人だが、両親にすれば我が子は可愛いので、そうは思えない。こうして、 自分の実家と家内の実家とは非常に険悪な状態になった。後日、少しは緩和し たが、それでもこういうことは一生尾を引くものだ。 <偶然朝日新聞の記事が目に> ・自宅ですることがない。数か月の浪人中にどこかに縁があれば再就職しよう と、履歴書と職務経歴書を色々な種類を作ってみた。いろいろというのは、自 分が製造業にもいたし、出版社、印刷会社にもいたので、送付先によって中味 を少し変えたものを何種類も作った。時間があり、暇だったので、それくらい しかすることがなかった。新聞の求人欄は毎日隅から隅まで詳細に検分した。 いくつかの会社の求人に送付したが、全く音沙汰がない企業もあれば、丁寧に 送り返してくる企業もあった。総じて、年齢的に対象外という企業が多かっ た。 ・超著名な地元の企業の幹部求人に応募したこともある。そこからは、「自社 では幹部の中途採用は一部上場企業の在籍者に限る」との厳しい評価を付けて 履歴書が戻ってきた。人材紹介のR社に登録もした。大阪まで行って一回り以 上も年齢が下の担当者に面接を受けたときは、さすがに気分的に落ち込んだ。 結局、自分自身のキャリアをきちんと説明するのが非常に難しいことが分かっ た。特に、書いたもので相手にわかってもらうことの難しさを痛感した。履歴 書や職務経歴書で、人を評価するのは至難の業だと、このときにいい経験をし た。 ・そうこうして2か月が経過したある日の朝日新聞の朝刊の2面に囲みの記事 があった。京都の面白い新進気鋭の経営者を紹介する記事で、同志社大学を卒 業し、R社に就職してR社の人事部で新卒採用を担当していたHさんが独立して 設立したS社が紹介されていた。新卒採用に特化し、大手企業の人事部に代 わって採用業務を代行する会社だった。大手企業の新卒採用は、今でもそうだ が一斉に就職戦線がスタートする。同時期に重なっていくつもの大手企業が採 用活動を開始する。そのエネルギーたるやものすごいものがある。 <間違って応募した> ・HさんはR社で新卒採用を担当した経験から、いかに大手企業の人事部の採用 がうまくいっていないことを知っていた。自分たちなら、もっとこうするとい う明確な戦略があった。そしてその後R社を辞めて、数名の部下や知人を巻き 込んで連れもって退職し、自分で会社を設立した。新卒採用のノウハウに特化 した会社だった。そのユニークなビジネスモデルを朝日新聞が取材し、記事に した。字数は多くないが、概ね事業内容はよくわかった。京都にそんな新しい ビジネスモデルの企業があることは、当然知らなかった。 ・この記事を読んで俄然この会社に興味を持った。何となくピーンと来るもの があり、早速パソコンでこの会社のホームページを覗いてみた。結構、今風の 会社だから詳しくいろいろなことが記載されていた。最後に中途採用のページ があり、そこに「コンサルタント募集」の書き込み応募フォームがあった。こ れ幸いとばかりに、知恵を絞って書き込みをして、最後に「送信」というメ ニューをクリックして、中途採用応募の書類送信の作業は終わった。そして、 さらにスクロールして最後まで読むと、これがなんと35歳以下の営業の募集 だった。 ・コンサルタントとは名ばかりで、実は営業の若手の中途採用の募集だった。 当方は50歳を超えて確かに診断士の資格はあるものの、まず年齢制限で完全に アウトだった。かつ、コンサルタントだからばっちりと思ってはみたが、要す るに営業職の求人だった。もう、書き込んで送信してしまった後なので、どう しようもない。何やらおかしくなって、一人で笑ってしまった。しかし、ここ で終わらないことが、その後の人生に大きな転機をもたらした。間違って送信 したので、手元に余っていた履歴書と職務経歴書をその会社に郵送した。 <最後の面接は飲み会> ・間違って最後までよくホームページを読まないで送信してしまってすみませ んと謝り、なかなか自分のキャリアを限られた字数で、限られたスペースに完 全に書くことが難しく、それでお詫びの意味を込めて郵送したと一筆付け加え た。この手紙を郵送して数日後、突然携帯に知らない番号から電話がかかって きた。S社の代表取締役のHさんからだった。曰く、一度お目に掛りたいと。面 接に会社に来てくれないかと。間違ってお詫びのつもりで郵送した成岡の履歴 書と職務経歴書を見て、何か感じたのだろう。京都本社に出向いた。 ・当時のS社の京都本社は烏丸七条の南西の角に建つ少し古いビル。忘れもし ない3月初めの夕方にお邪魔した。7階の見晴らしのいい北向きの社長室に通 されて、2時間ほどじっくりと話しをした。そこで、このS社がどういう経過 で設立され、以降どのように成長発展を遂げて来たのかを、懇切丁寧にお話し いただいた。そして、近い将来IPOつまり株式上場を目指していることも知っ た。多数の外部の投資ファンドから多額の資金が出資され、早期に上場しない といけない状態であることも知った。時間があまりないようだった。 ・その日はそれで別れたのだが、最後に仮に来るとしたらという前提での、条 件、待遇の話しがあった。特にこちらから希望を言うのは止めて、先方の意向 で構わないと伝えた。後日電話が入り、入社を前提に東京の会議に出席を要請 された。会議の後にある社内の懇親会、つまり飲み会に参加して社員や幹部か らの評価を聞いてから、最終的に結論を出すとのことだった。かくて、3月の 下旬に開催の東京での会議に出向き、その晩の飲み会でしこたま久しぶりに酩 酊した。そして、後日S社への正式の採用が決定した。管理部門の責任者とし ての就任だった。