**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第793回配信分2019年07月08日発行 年代別に人生の転機を振り返るシリーズ第10回 50代の転機その3:投資ファンドとの格闘 **************************************************** <はじめに> ・50歳で転職して東京に単身赴任し、若いベンチャー企業でのおじさんの東京 生活が始まった。とにかく、この企業は若く、元気があり、活気にあふれてい た。社員は優秀で、よく働く。働くというより、自分自身の成長を確信して、 とにかく自己研鑽に励んでいる。寝食を忘れてとはよくあるセリフだが、本当 に昼夜を問わず頑張るメンバーが多かった。年齢のことだけを書けば、社長の Hさんが40歳で、その他3名の役員は全員が30歳台。社長より年配の社員は、 京都の本社にいる女子社員のOさんだけだった。 ・このOさんだけは別格で、社長より年長で、彼女は社長のHさんを「君」付け で呼んでいた。それが特に違和感なく、さっとお腹に落ちるのはこの会社の独 特の空気、風土、文化だと思った。お互い役職の呼称は呼ばないで、全員「さ ん」付けで呼び合っていた。非常に自由で、闊達で、フランクでいい雰囲気の 会社だった。社員の誕生日には、夕方から突然「ハッピバースディー」が歌わ れ、サプライズのプレゼントが用意され、そこからワインパーティが始まるこ とも多かった。深夜に終わってから、また仕事に戻る人もいた。 ・若い男女が東京支社には70名近くいるから、それはいろいろなメンバーがい る。お酒がめっぽう強い女性もごろごろいて、まともに飲んでもほとんど崩れ ない。そうかと思えば、アル中のような社員もいて、宴会になると俄然元気に なる。年頃の独身の男女が多かったから、男女の浮いた話や、逆にほれたふら れた話も、ごまんとあった。もちろん、きちんと社内結婚したペアもあった が、とかくこの手の噂話は途切れることがなかった。しかし、一定レベルのモ ラルはきちんとしていて、逆に男女間のトラブルは表面的には少なかった。 <4億円の投資はソフト開発に消えた> ・設立当初の資本金はいくらだったか記憶にはないが、成岡が転職して入社し た時点では、資本金は4億4,000万円だった。4,000万円の自己資本に数件の ファンドから4億円という巨額の投資が実行された。この投資は、システム開 発の費用に充当された。当時の新卒採用の一般のシステムはお世辞にも立派な ものではなかった。ようやくパソコンが普及し、データベースという言葉が一 般化していたころだ。エントリーにパソコンが利用され、この膨大なエント リーのデータをきれいに整理し、格納し、ソートし、検索するのが難しい。 ・大手上場企業だとエントリーの人数は数千人になる。氏名だけからでは男女 の区別が難しい名前もある。一番やっかいなのは、大学名、学部名、学科名な のだ。400校近くある4年制大学の学部名からは、理系か文系の学部かが分か らない学部が結構ある。学科名になると、さらに判別が難しい。総合人間学部 などというどちらにでも解釈できる学部や、新設の学部などは、区別がつかな い場合が多い。連絡先も、下宿であったり実家であったり、住所地だけでは判 別が難しい。携帯電話の番号もあったりなかったりする。 ・このような欠損値が多いデータを整理し、あとのアプローチも考えたうえで 膨大なデータを管理するソフトを開発するのに多くの投資が必要だった。4億 円の外部ファンドからの投資の大半は、このソフト開発の費用に消えた。しか し、このデータベースがあったことで競争優位性があり、他社との競合に勝ち 抜くことができた。成岡が転職し入社する数年前から、このソフトが決め手に なり大手企業の新卒採用のオーダーが多く受注できていた。しかし、時間が経 過するとこのソフトが陳腐化してくることになる。 <投資ファンドからの催促が> ・4億円の外部からのファンドの投資は非常に重たい金額だった。最初の投資 ファンドからの資金がいつごろ入ったか成岡には定かではないが、とにかく投 資を受けたからにはリターンがないといけない。リターンは通常はIPO(株式 上場)して出資者に多額のキャピタルゲインをもたらすか、それとも大きな配 当を出し続けるか。また、会社の業績は大きな成長が期待できる実績を残さな いといけない。投資を受けたときと、それから数年経過して経営環境も大きく 変わってきた。競合も増え、デジタル社会もどんどん浸透してきた。 ・このS社が創業されたときと、成岡が転職して入社したときと、大きく外部 環境が変わった。しかし、投資をしたファンドにしてみれば、いったいいつ株 式上場してくれるんだと、いらいらが募っている状況だった。決算の結果が出 て、主要な投資会社にH社長と出向いて業績の説明をするのだが、どうも歯切 れが悪い。いつごろどうなるという見通しを明確に示せない。また、主幹事の N証券の担当者からもいろいろと催促の連絡が来る。監査を依頼した大手監査 法人との関係も、ぎくしゃくしてきた。次第に環境は悪化してくる。 ・このまま成り行きで放置するとまずいことになると感じたH社長は、数回に わたり役員会を招集し、この投資ファンドへの対応に絞って議論を行った。外 部に宿泊して合宿役員会の形式で深夜まで議論したこともある。当時の売上は 20億円くらいあり、規模感としては悪くなかったが、業績の伸長が停滞気味 だった。成長への伸びしろに陰りが出始めていた。競合他社も乱立し、コスト 競争も激化してきた。また、組織面でも創業メンバーの主要な一人がH社長と の路線の確執から退社した。成岡が入れ替わりに役員に就任した。 <IPO決定したが足下の業績が悪化> ・このままIPO路線を走るのか、いったん立ち止まって方向転換するのか、非 常に難しい選択の時期を迎えていた。しかし、4億円の投資は重たく、いまさ ら渡ったルビコン川を戻れないというのがH社長の結論だった。かくて、上場 に向けて再度ギアチェンジして加速するという決定が下され、本格的に上場に 向けた準備を開始することになる。上場準備室というようなプロジェクトチー ムが編成され、成岡も管理面の責任者であり役員であったから、重要な役割を 担うことになる。外部の組織との折衝、交渉が始まった。 ・決定から約半年くらい経過して、進捗の説明を都度行っていたが、足下の業 績が芳しくない。準備は継続して行ってはいるものの、一番肝心な今期の業績 見通しが振るわない。提案するメニューも陳腐化し、他社との差別化も難しく なりつつあった。そうなると、どうしてもコスト競争になり、後発で進出して きた企業はダンピングしてオーダーを取りに来る。以前からの上得意顧客の企 業の発注が他社に流れ、失注する機会が増えてきた。こうなると、泥沼状態に なり、あがいても業績が急激に改善されることは難しい。 ・負のスパイラルに陥りつつあった。もう一度、上場するという経営方針の見 直しが必要だった。しかし、いったん掲げた旗を降ろすのは容易なことではな い。四半期ごとの業績報告も急に歯切れが悪くなってきた。さあ、どうするの か、という御前会議の役員会が深夜に及び、成岡はIPOの延期を提案した。こ のまま突っ走ると、仮にIPOできてもその後の結果に責任が持てない。マラソ ンでは42キロがゴールだが、いったん上場したらゴールのない世界を走り続け ることになる。責任者として取り下げを提案したが、反対多数で却下された。