**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第795回配信分2019年07月22日発行 年代別に人生の転機を振り返るシリーズ第12回 50代の転機その5:役員辞任し退職して自ら起業する **************************************************** <はじめに> ・IPOに関して、役員会での結論はIPOありきだったが、成岡の見立てではその 時点ではとてもIPOが可能な状態ではないと判断していた。一番の問題は、業 績だった。10年前に創業し、創業直後は先行者利益があり突っ走れたが、その 後他社からの多くの参入があり、一気に先行者利益は吹き飛んだ。悪いこと に、この頃ファンドからIPO期待で多額の投資が入り、数年後のIPOがコミット メント、つまり約束になってしまった。その時点では、成長力も収益力もあっ たのだろうが、それから数年後にはかなりの陰りが出ていた。 ・ちょうどそのころ、成岡が転職して入社した。そして、すぐに東京に単身赴 任転勤になり、IPO準備の責任者となった。その後、会社の実態がわかるにつ れて、次第にIPOに関して懐疑的になってきた。準備の状況は、業務監査など は京都の監査法人が行い、書類も相当なレベルまで完成していた。もちろん、 その準備にも相当の費用がかかっていた。何より、投資で投下された資金は4 億円。その大半は、データベースのシステムの開発に費やされていた。そのた め、手元の運転資金は結構窮屈だった。資金繰りも大変だった。 ・H社長との話し合いは数回持ったと記憶しているが、最初から平行線だっ た。役員会で決まったことだし、それが覆ることはなかった。成岡はこのまま IPOに突き進んだら、おそらく間違いなく失敗するだろうと、妙な自信があっ た。平成になってから以前の出版社で多くのマイナスの経験を積んだことか ら、会社が停滞しさらに成長が止まり、どんどんマイナスのスパイラルに陥る 兆候と症状とはどういうことかが、動物的な感覚で理解できていた。しかし、 そういう経験のない人が大半だ。いくら言っても、理解してもらえない。 <辞表は預りとなった> ・数回の面談のあと、IPOを断念してもらうのは諦めた。話し合いで解決する ことでもないし、双方が主張を譲らないなかでは、いつまでも平行線だった。 断念することは、成岡がその役目を辞任することだし、会社での役割を終える ことだった。役員として、役員会の決定に異議を挟むことはあり得ることだ が、その決定が自身の役割、ミッションと相反するなら、役目を全うすること はできない。以前の出版社では、最後の最後まで代表取締役の義兄を説得でき ず、不本意に迎合し、挙句の果てに会社が特別清算で消失した。 ・この経験を活かさないといけないと、最後の最後まで説得を試みたが、結果 はダメだった。これは進退を賭けての説得だったので、これが通らないなら辞 めるしかなかった。辞めるまでしなくてもいいじゃないかと、慰めてくれる友 人もいたが、やはり自分の信条と相反する立場にいることは、役員として許せ ない。かくて、辞表を懐に代表者のHさんに提出した。当然、慰留されたが決 心は変わらない。変わらないというより、役目柄辞めることが当然の成り行き だった。受け取ってはくれたが、認めないと言われた。 ・しかし、決心は堅かった。辞表はいったん預かりとなり、中途半端な状態に なった。その後は仕事がまともに手に着かない。デスクの席に座っても、なに やら座り心地が悪い。周囲の部下のスタッフも、何があったのだろうと気にし ている様子が手に取るようにわかる。こうなると、会社にいる時間が非常に長 く感じる。また、通常の業務が手に着かない。いつ退職するのが妥当なのかが 不明で、緊急の用件を除いては新しいことを始める気力がない。当然モチベー ションはどん底まで下がり、会社にいる時間が耐えられなくなる。 <辞任には大義名分が必要だった> ・当時東京に単身赴任でいたので、この心境を聞いてくれる親しい友人も周囲 にたくさんいたわけではない。数名は都内に勤めていたので、一番親しいO君 には愚痴をよく聞いてもらった。少しは胸のモヤモヤが解消はできたが、こと の本質が変わるわけではない。家族には結論だけ伝えて、それ以上詳しいこと は言わなかった。どうせ、言っても理解できないし、説明するのも無駄だっ た。かえって面倒なことになるので、あまり詳しい話しはしなかった。結論だ け伝えて、近いうち給料がなくなることだけは伝えた。 ・退職する日程が、なかなか決まらない。決まらない理由は、二つあって一つ には成岡は3名必要な役員の一人だった。成岡が辞任し退職すると役員の補充 が必要になる。このS社はまだ若い会社なので、誰が役員に就任するかは、非 常に機微な選択だった。人事面でも、待遇面でも、組織面でも、誰を次の役員 にするかは非常に難しい選択だった。代表のH社長は非常に悩ましい課題に直 面した。しかも、IPO路線を継承し、対外的なポジションを全うしてくれる腹 心のスタッフを選ぶ必要がある。多くの選択肢はなかった。 ・もうひとつの理由は対外的な発表の仕方だ。IPO路線を選択したので、幹事 証券会社や監査法人、投資ファンド企業などへ選手交代の説明が要る。担当役 員がIPOに反対して辞任し辞職したというのは、どう考えても説明がつかな い。何か、本当の理由以外のもっともな理由が要る。例えば体調の異変とか、 家庭の事情とか。そこでひねり出されたのは、その年の5月に成岡の京都の実 家の父親が逝去したことだった。母親が一人残され、成岡はその面倒を見るた め京都に転勤になったので、その役目を外れることになった。 <ドタバタして法人を設立> ・この父親の逝去のために京都に転勤で戻ったという理由が、一番もっともら しかった。社内的にも対外的にも、一番納得感があった。かくて、平成16年、 2004年の9月末をもってS社を実質的に退職することになった。しかし、社内 的には役員在任のまま京都に転勤したことになっていた。実際には退職してい たのだが、対外的な発表は京都への転勤だった。かくて、9月末をもって単身 赴任の住まいを引き払い、引っ越しした。3回目の単身赴任が終わり、荷物を 一人で片付ける作業に2日間を費やした。かなり疲れた。 ・しかし、今回ですっきりした。もう後には戻れなかった。今度こそ、30年弱 のサラリーマン生活に区切りをつけ、京都に戻って自分自身で独立して歩くと いう決心がついた。気持ちはすっきりしていたが、しかし不安で一杯だった。 独立したらどうなるんだろうと、非常に不安な気分だった。何より、仕事のこ とより、生活、おカネが心配だった。今回も含め、40歳の中頃から会社が倒産 し、株券を買った借金が残り、自宅が担保に入り、高額の役員報酬がなくなっ た。当然、退職金は1円も出なかった。今回も退職金はないはずだ。 ・自前の貯金もこのような状態だったので、あまりなかった。3人の子供は一 番下の女の子がまだ大学生だったが、上の2人は就職していた。これで京都に 戻って、会社を立ち上げて本当にやっていけるのだろうかと、非常に不安だっ た。まず、会社を立ち上げないといけない。初めから個人事業でやることは、 毛頭考えなかった。無謀か無謀でないかを考えることは一切なく、いきなり 1000万円の資本金で法人を設立した。辞任、辞職、退任が決まってから、大特 急でドタバタ設立した法人だった。とにかく、10月1日に船出をした。