**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第866回配信分2020年11月30日発行 特別シリーズ:新型コロナウィルス感染パンデミック対策その38 コロナ後世界と社会の課題その9 〜後継者が取り組む新規事業のポイント〜 **************************************************** <はじめに> ・今回は筆者が新規事業を任されたときの経過を振り返りながら、後継者が心 得る新事業立ち上げのポイントを書くことにする。小職が在籍した出版社で新 事業の案件が持ち上がったのは、平成61年つまり1986年だった。その当時の会 社の経営は、創業当初からの勢いに陰りが出始め、いくつかの事業が頭打ちに なり、いくつかの事業部では赤字が続いていた。そんな最中に、昭和59年に成 岡が移籍して、新事業を担当することになる。当初は会社の実態を把握し、全 くの門外漢だったから各部署の勉強をすることになり1年間が費やされた。倉 庫の出庫作業から始まり、直販の営業、書店の営業などいくつかの部署をそれ ぞれ数か月担当し、先輩社員からいろいろと教えてもらった。 ・そして1年間の実習が終わり、京都の本社に戻ってきてまず担当したのが中 途採用の業務だった。当時販売専門の子会社があり、ここの営業社員は全員中 途採用だった。昭和60年といえば、とき日本はバブル経済の入り口にさしかか り、高度経済成長からバブル経済へ移行の途中だった。この時期の中途採用へ の応募者は多く、採用にそう困難はなかったが、待遇や条件に難があり、試用 期間的に採用しても数か月で退職するという悪循環を繰り返していた。そこ で、新規事業を失敗するわけにはいかないので、昭和61年の採用から新卒学卒 者の採用に切り替えた。当時、新卒学卒者の採用に関し社内で経験した人、部 署はなくそのために新たに「人事部」という部署を作ったくらいだ。 ・新設の「人事部」は主に新卒学卒者の採用を担当することになったが、専従 者がいるはずもなく、当然全員が掛け持ち兼任だった。そして、新卒学卒者の 採用活動が始まり、女性4名、男性20名くらいの新卒学卒者の採用が内定し た。翌年入社することになるのだが、ここで失敗したのは、入社後の受け入れ 態勢ができていなかったことだ。新卒学卒者を採用し、いったん男子は全員営 業部署に配属することとしたが、20名の新卒者を受け入れるには最低5名程度 のマネジャーが必要だった。これを簡単に考えすぎていて、入社直前になり慌 てて管理職教育をしたが、そもそも管理者としての常識、素養、経験などがば らばらなメンバーだったので、この受け入れ態勢をきちんと作るのに本当に苦 労した。 <コンセプトがぶれないこと> ・この新規事業プロジェクトで、一番よかったのは最後まで新規事業のコンセ プトがぶれないことだった。新しいジャンルの事業を立ち上げるのは、並大抵 ではない。それまで人文科学系の出版物しか出したことのない出版社が、いき なり自然科学系、しかも激戦区の医療看護というジャンルに社運を賭けて打っ て出た。当時の会社の売上からすれば初期投資の5億円というのは大きな投資 だった。失敗は許されない。それを営業が素人の成岡と多くの新入社員に委ね るという決断を下した義兄の代表取締役も、清水の舞台から飛び降りる覚悟 だっただろう。案の定、さきほども書いたが当初は業績が上がらず、もたもた した。ほとんど京都の本社にはいないで、全国各地を飛び回った。 ・多くの学卒新卒の新入社員は、1か月の集合研修のあと数名のマネジャーの グループに分かれて全国各地に分散して、営業活動を開始した。最初1年間は 業績が芳しくなく、社長からは何回もダメ出しをされた。学卒新卒者を止め て、従来通りの経験者中途採用者に切り替えようという提案まで出た。しか し、いまここでそれをしたら今までの苦労と投資は水泡に帰す。ここは身体を 張ってでも抵抗しようと、進退を賭けて拒否した。ようやく1年目の後半から 徐々に結果が出てきて、何とか事業部は存続した。労務面では、いろいろと苦 労があったが、現場が一番よかったのはこのプロジェクトで扱う商品、サービ スのコンセプトが一貫してぶれなかったことだ。 ・往々にして新規事業の方針は、途中でぶれて方針転換するケースが多い。最 初はきれいごとで、何か新しい事業を始めようとして、少々の赤字や費用は投 資のようなものだから構わないと、社長のお墨付きをもらっていた。ところ が、なかなか結果が出ないとなると、社長もぼちぼち苛立って、いつになった ら売上が上がるのか、赤字を解消して黒字になるのかと、矢のような催促があ る。挙句の果てに、方針を転換して、とりあえず売上の立つ方式や内容に変更 することを提案してくるようになる。気持ちはわからないでもないが、ここで 方針を転換すると事業自身のコンセプトが大きく変更されることになる。3年 間は持ち出し覚悟と言っていた経営者が、豹変して売上、売上と言い出す。 <マネジャーを育てるのが大変> ・こうなると、新規事業も、プロジェクトもあったものではない。メンバーは 白けてやる気をなくし、モチベーションは一気にダウンする。特に、ミッショ ンを託された担当者の落胆は大きく、なかなか立ち上がれない。3年間は目を つぶるから、4年目から売上を出すようにと、初めに言ったことは嘘だったの かと、疑心暗鬼になる。今の時代で言えば、昨今のコロナの影響で業績に陰り が見えだし、きれいごとを言っている場合ではなくなってきている。事情は分 からないでもないが、そのための新規事業のプロジェクトではなかったのか。 この数年間の苦労は何だったのかと、やる気が一気に失せて、もうどうでもよ くなる。こういうケースは中小企業に限らず、大企業でもよくある話しだ。 ・成岡の担当した新規事業は、このコンセプトのぶれはなかった。医学と看護 の境界線の新しい領域を独自に開拓するというミッションは、どんなに業績が 低迷しようが、明確だった。ただ、投資がどんどん計画から膨らみ、回収がど んどん計画から遅れるので、資金収支つまり会社の資金繰りへの影響は大き く、いつもそれを厳しく言われて役員会では針のむしろだった。特に、代表者 の一族でもあり、後継者というポジションに一番近い人物だから、余計に周囲 の目も厳しかった。一族同族の役員が担当する新規事業プロジェクトが、結果 が出ないとなると格好がつかない。むしろ手柄を立てて、結果を出して、模範 となるような業績を挙げないといけないのだ。 ・振り返ってみれば、この新規事業プロジェクトは結果的には成功するのだ が、当初の計画より遅れること数年、ようやく初版5,000セットを販売するの に数年遅れて達成した。最後の2年間は本社の状況が悪くなったので、別の部 署も兼任することになり、あまり現場にはかかわる時間がなかった。遅れた原 因は、マネジャーを育てるのに時間がかかったこと。つまり、腹心の部下がな かなか育たなかったということだ。とりあえずの体制ができたのが、新卒学卒 者が入社する直前だった。急場しのぎもいいところで、いろいろなところで 「ボロ」が出た。新入社員はその辺は敏感に感じ取り、先輩社員もいない中 で、直属の上司であるマネジャーの背中を見て仕事をしている。マネジャーは 成岡の背中を見ている。 <やり切ると腹を括る> ・当初からこのプロジェクトには、リスクが大きいという批判はあったのは事 実だ。人、モノ、カネの3種の神器のうち、何が一番問題かと言えばつまると ころ、人、人材に尽きる。一人でできることはしれている。まず、大きなこと をやりきるには、腹心の部下が要る。その腹心の部下を作るのに時間がかか る。自分自身と同じような考え方をしてくれるように、一心同体になるよう に、24時間365日一緒にいるようにして、考え方を同期するようにしないとい けない。設備は買えば購入できる、資金は借りればいい。しかし、人材だけは おカネでも買えないし、育つのに時間がかかる。新規事業をいきなり大規模に やるのは、この人材を揃えるのに大きなエネルギーが要る。中小企業ではなか なかむつかしい。 ・まず、小さく生んで大きく育てる。育てるのに、自社の人材と外部の知恵を うまくミックスする。成岡が担当した新規事業プロジェクトで言えば、すべて 内部の人材でカバーしようとしたのが間違いだった。一部の遠方地域は外部の 代理店、販売店に委嘱したほうがよかった。自前主義ですべて自分が掌握せね ばいけないと、思い込んでいた。いまの時代なら、ネットやいろいろな手法を 駆使して、いくらでもリアルタイムにノウハウを吸収できる。一定のコストは かかるが、変動費だと割り切ることが大事だった。 ・確かに結果が出ないと、トップは不満だしイライラするだろう。我慢してく れと言っても、なかなか納得してくれない。成岡担当の新規事業の事業部も、 何回も存続が役員会で話題になった。しかし、このプロジェクトを頑張らない と、会社が変わらない、未来はないと主張して頑張った。できるかどうか、完 全な自信はなかったが、後には退けないやるしかないと覚悟は決めていた。そ のために、転職したのだと進退を賭けて臨んだ。新規事業成功のポイントは、 人材のマネジメントとコンセプトがぶれないことだ。代表者がコロコロ方針を 変えると混乱する。我慢と辛抱が必要だ。