**************************************************** ・・・・・経営の現場から・・・・・ 【成岡マネジメントレター】(毎週月曜日発行) 第900回配信分2021年07月26日発行 東京2020五輪特集 〜昭和39年の東京五輪を振り返る〜 **************************************************** <はじめに> ・前回の東京五輪が行われた昭和39年、1964年。この年に東京五輪が開催され たが、開催地の決定はその5年前に遡る。有名な経済白書が、「のはや戦後で はない」と書いたのが昭和35年。その少し前に東京で五輪の開催が決定され た。しかし、その当時の日本は、東京はまだまだ戦後の復興の真っ只中。何も かもが揃っていなくて、何もかもが未完成で、何もかもがまだ発展途上だっ た。京都で生まれ、京都で暮らしていた小生は、首都東京の変化を肌で感じる ことはなかったが、日本全体の経済環境は子供心に何となくは感じられた。ま だまだ近代日本とは言い難い環境だったが、その中でも東京で五輪が開催され るというのは、開催直前までそうぴんと来るイベントではなかった。 ・そもそも、京都という東京から500キロ近く離れている土地では、東京と言 う土地は憧れでもあり、一種異国の土地だ。小学生の身分で東京に行ったこと がある人自体が、そう多くなかったはずだ。確か、記憶では小学生の5年生く らいに東京に数日滞在した記憶がある。祖父が会社経営をしていて、海外出張 に出かけることになり、祖母、母、姉、成岡の4名で東京に見送りに行くこと になった。当時、海外出張は「洋行」といって大変な出来事だ。さすがに汽船 ではなく飛行機だったと思うが、羽田飛行場に見送りに行くのに新橋の第一ホ テルに宿泊した記憶がある。ホテルの部屋の窓から、東海道線を始め山手線な どの列車がひっきりなしに行きかうのを、時間が経つのも忘れて見とれてい た。 ・当時、東京に行くには国鉄では「こだま」という特急電車が走っていて、そ れでもおおよそ6時間かかった。旧雷鳥型の特急電車でツートンカラーの格好 のいい列車だった。まず、これに乗る、乗れることが、とてつもない嬉しい出 来事だった。確か、学校を1日だけ休んで行った記憶がある。当然、当時はま だ新幹線は走っていない。工事は行われていただろうが、まだ試運転中だった と思われる。そして、東京で3日間滞在し、東京タワーに登った。登ったとい うのが正しく、エレベーターで上がろうと思うと数時間待ちの状態だった。止 む無く、母、姉と一緒に階段で150メートルくらいの中間展望台まで登った。 くだりも階段で降りたので、さすがにホテルに帰って足ががくがくしたのを覚 えている。 <トヨタ大衆車登場> ・東海道新幹線は、五輪の年の10月1日に開業した。開会式直前の9日前だっ た。しかも、それ以降ほぼ完ぺきな運営、運転の技術が出来上がっていた。ど こかの国のように、まあいいかととりあえず間に合わしたのではない。ATCの 列車制御システムも、ダイヤも、高速運転技術も、レールもパンタグラフも車 両も完璧だった。開業前は、大阪の鳥飼基地から阪急の大山崎近辺での試運転 が行われていた。線路を高架で建設し、レールを敷いて、そのレールを踏み固 めるのに阪急電車が当時線路をまたいで新幹線のテスト線路を踏み固めるため に走った。当時の国鉄の線路幅は狭軌という狭い幅で、新幹線の線路幅の標準 軌という幅は私鉄の電車しかなかった。6年生の当時、鉄道友の会の会員だっ たので、新幹線の試乗会の抽選が当たって試乗走行列車に乗車した。200Kmを 越えた瞬間大変興奮した。 ・名神高速道路も、確かこの前年に兵庫県尼崎ICから愛知県の小牧ICまでが開 通した。東名高速道路が開通し、名神と連結するのはまだずっと先だ。当時、 自宅に車が1台あり、珍しく母が運転免許証を持っていて、高速道路で走った 記憶がある。まだ、100キロなどという速度を出せば、すぐにエンジンが悲鳴 を上げてオーバーヒートするというくらいの車のレベルだった。数名乗れば、 六甲山の急斜面が登れず、途中でボンネットを開けて水をラジエターに補給す るという今では考えられないレベルの車の質だった。当時、ようやく軽自動車 が走り出し、トヨタ自動車が大衆車を発売するというので、車名を大々的に募 集して話題を呼んだ。当たれば車がもらえるというので、応募が殺到した。成 岡家も応募したが見事に外れた。当選した車の名前は「パブリカ」だった。 ・この車名の由来は、「パブリックカー」。つまり大衆車という意味だ。当時 の価格がいくらだったか覚えていないが、サラリーマンの年収どころではない 値段だったはずだ。当時トヨタ自動車より日産自動車の方がシェアは大きかっ たと思うが、当時からトヨタはマーケティングを重要視し、今後車社会が間違 いなくやってきて、値段が下がれば爆発的に車が売れると読んで、量産の車を 考えていた。その切り札が、この「パブリカ」だった。コンパクトな車体で、 小型車で家族4人がちょうど乗れるという仕様だった。値段は覚えていない が、頑張れば手が届くという価格だったと思う。ネーミングに応募し採用され た人から抽選で当たるとなっていて、大きな関心を集めた。ちなみに、成岡家 が応募したネーミングは「トヨタロー」だった。 <首都高やホテルの建設> 東京では五輪の準備が始まり、車の渋滞が頻発し、いたるところで大渋滞が日 常茶飯事になっていた。そこで東京五輪対策として出て来たのが「首都高」 だった。しかし、五輪の開催に間に合わさないといけない。時間は多くなかっ た。用地買収などで時間がかかると間に合わない。そこで頭をひねった結果、 出てきた案が「川を干上がらしてその川を道路にする」という奇抜な案だっ た。結果的に3本の川が道路になった。また、そのあおりを食って、かの有名 な「日本橋」がなくなった。また、従来の道路の上に道路を建設するという奇 策も採用された。とにかく間に合わさないといけない。関係者は必至だったろ う。深夜の工事もいたるところで行われ、全国から多くの土木工事関係者が首 都東京に集められた。 ・選手村が代々木と言う東京都心の真ん中に造られ、多くの海外の選手が滞在 することになる。一番の課題は食事だったらしい。数千人の海外からのアス リートが集まり、開催期間24時間運営される食堂は、またこれが多くの課題を 抱えることになる。当時は、アフリカや東南アジア、中近東、南米など、あま り馴染みがない国からの渡航者は多くなかった。その馴染みのない国からも多 くの選手、関係者が長期間滞在するのは初めてだ。食材の確保、料理の方法な ど、全く分からない。レシピも誰も分からないので、その国の大使館に出向 き、母国の職員の奥さんに食材や調理法を聞き取り、何とか間に合わした。全 国から多くの調理人が東京に集まり、腕を磨いた。ここから、その後多くの有 名なシェフが誕生した。 ・選手村以外に大会関係者が泊まる高級なホテルが足りない。大特急で多くの 立派なホテルが建設された。特に、赤坂のホテルニューオータニは屋上付近に 360度回転するレストランがあり、約1時間少しで食事をしながら東京の夜景 が楽しめると、多くの人を魅了した。これらのホテルはその後50年以上時間が 経過し、取り壊されて建て替えられたホテルもあり、第二世代の建物に生まれ 変わっているものもある。しかし、これらのホテル群も建設には時間がなく、 多くの新しい工法や技術が開発された。その後普及した「ユニットバス」とい う浴槽と洗面台がセットになったものが、この時期に開発されたという。その 後多くのホテルの建設に採用され、一世を風靡した。 <新しいビジネスや技術が花開く> ・建物や道路などの建築物以外にも、新しいビジネスが生まれた。そのひとつ に「警備」という仕事が生まれた。要人を警護するのは警察の仕事だが、多く の大会施設、選手村などの安全、安心を担保するのは民間の仕事になった。そ ういうビジネスに新しい需要があることが、初めてわかった。今では、警備ビ ジネスはITの塊のような面が強いが、この時期の警備ビジネスはまだ人的なマ ンパワーに依存していたはずだ。今では、多くの警備会社が生まれたが、この 東京五輪を契機に新しい業種が生まれ、さらに6年後の大阪万博で大きく成長 するビジネスになった。しかし、きっかけはこの東京五輪であることは間違い ない。しかし、当時は人集めとその後の教育訓練に苦労があったという。 ・とにかく、5年前に開催が決まり、そこから一瀉千里の超特急で開催準備が 始まった。新幹線、首都高、名神高速道路、多くの建物、衛星放送、通信技術 など、現在につながる多くのインフラ資産が造られ、生み出された。これほど の短時間で、これほど多くのプロジェクトがほぼ成功裏に完成したというの は、実はとてつもないエネルギーと叡智の集まりだ。考えれば、50年以上前 だ。インターネットもなければ携帯電話もない時代だ。当時、この多くのプロ ジェクトを完成させた人材は、ほとんど亡くなられているはずだ。そのとき に、日本はまさに戦後から高度経済成長の時代に足を踏み入れた。そして、大 阪万博を経て、まさに日本列島改造論により高度経済成長から、バブル経済の 入り口にさしかかる。 ・生きている間に2回オリンピックを見ることはないと思っていたというセリ フは、今回成岡と同世代の多くの方から聞いた。過去の1964年の東京五輪の開 催は、間違いなくその後の日本の経済成長を支える多くの技術や資産を残して くれた。多少設備としてはレガシー(遺構)になったものもあっただろうが、 間違いなくプラス効果は大きかった。何より、国際的に日本の経済と技術のレ ベルの高さを海外に十分知らしめる機会になった。閉会式に参加した多くのア スリートや関係者が、国別の行進をやめて日本の国旗を持った旗手を肩車して 入り乱れて行進した光景は、非常に印象的だった。それくらい、世界の人々に 日本での東京五輪の成功は大きなインパクトを与えたはずだ。さて、今回はど うなるだろう。